Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.7.20

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 平 八 郎」

その8

猪俣為治

『朝日新聞』1898.9.26 所収


朝日新聞 明治三十一年九月廿六日
大塩平八郎 (十) 猪俣生

  其三 治績(続)

(つ)いで文政十三年三月、山城守 平八郎に命じて大阪市中の僧侶を罰せしめたり、是より先き僧規大に頽(すた)れ、破戒の頭陀各所に出没し、啻(たゞ)に葷(くん)を茹(くら)ひ肉を喫するに止まらず、或ハ人の妻妾を犯し、或ハ寺内に梵嫂(ぱんさう)を蓄ひ、其醜状汚行、無頼の年少よりも甚し、就中北野某寺の住持ハ、加持祈祷に託して多くの婦女子を集め、淫を強ひ慾に誘ひ、其手の触るゝ所の女子をして悉く貞節を失はしむるに至れり、山城守之を憂へて、平八郎に僧風矯正の任を託せり、此際平八郎建策して曰く、僧侶の破戒犯姦今に於て実に甚しとす、然れども検束久しく弛み、旧染も亦深し、若し一朝急に之を理せんとすれバ、所謂是れ不教の民を罰するものにして、恐らくハ繁刑に堪へざらん、若(し)かず先づ訓諭の令を布き、而して後猶ほ改めざるものハ捕へて之を罰し、以て恩威両(ふた)つながら全(まつた)からしめんにハと、山城守之を可とし、乃ち僧侶に対し汚行禁制の令を下す、命下る再三にして猶ほ其旧行を改めざるものあるを以て、平八郎は遂に之を逮捕するに決せり、此際獄に下るもの五十余人の上に出で各々其軽重に従ひて流竄に処せられたり、是に於て叢林戦慄し、淫風長く止めり、

高明の家ハ鬼神其室を窺ひ、誉(ほまれ)の帰する所毀(そしり)も亦之に随ふ、是より先き平八郎の名声、隠然関西を動すに至りしを以て、東西奉行の吏曹、彼が独り威望を擅にするを嫉み、公事に非らざれバ未だ曾て語を交へず、動(やゝ)もすれバ相党して彼に当らんとするの意を示せり、平八郎之を知り、衆人の怨府となりて、或ハ不慮の災を蒙むらんことを慮(おもんばか)り、一時辞表を出して蟄居せしことあり、然るに吏務滞渋し、訟獄遅延し、庁政復為す可からざるに至れり、故に山城守強ひて彼を起して再び事に従はしめたり、

此歳の七月に至りて山城守齢已に七十に近く、劇務に堪へざるを以て、病と称して骸骨を乞へり、平八郎此事を聞き、一日山城守に謁し謂て曰く、従来の奉行中、宏量、閣下の若きハ未だ曾て之れ有ざる所なり、想ふに閣下を外にしてハ他に不肖を容るゝ人なかるべし、内藤公ハ挙動了々を欠き心裏少しく模糊たる所あり、然れども亦以て閣下の次(じ)と為すべし、他ハ言ふに足らざるなりと、山城守之に答へて曰く、余の在職中、重任厚用、纔(わづか)に卿をして其能の一部を展(の)ぶるを得せしめたり、今余職を辞せバ、後任者恐らくハ卿を用ふる能はざるべし、然れども卿ハ素と百里の才に非らず、区々たる一騎士の職ハ、固より驥足(きそく)を展ぶる所以に非らず、故に姑(しば)らく致仕して以て時を待て、余他日機を得バ必らず幕府枢要の地位に卿を推薦せん、平八郎曰く、閣下の言辱しと雖も、利禄固期する所にあらず、唯従来聊か微力を致せるハ、深く閣下の知遇に感激して忠勤を尽したるのみと、乃ち山城守の辞職の未だ允(ゆる)されざるに先だちて致仕し、養子格之助をして其職を継がしめたり、格之助ハ親戚西組西田清之進 *1の子にして、六年以前養ひて子と為せるものなり、時に平八郎齢三十七歳にして、人其辞職を嘆惜せざるものなし、


管理人註
*1 格之助は、西田八郎右衛門の次男、青太夫の弟。


井上哲次郎「大塩中斎」その3

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