その8
『朝日新聞』1898.9.26 所収
朝日新聞 明治三十一年九月廿六日
大塩平八郎 (十) 猪俣生
高明の家ハ鬼神其室を窺ひ、誉(ほまれ)の帰する所毀(そしり)も亦之に随ふ、是より先き平八郎の名声、隠然関西を動すに至りしを以て、東西奉行の吏曹、彼が独り威望を擅にするを嫉み、公事に非らざれバ未だ曾て語を交へず、動(やゝ)もすれバ相党して彼に当らんとするの意を示せり、平八郎之を知り、衆人の怨府となりて、或ハ不慮の災を蒙むらんことを慮(おもんばか)り、一時辞表を出して蟄居せしことあり、然るに吏務滞渋し、訟獄遅延し、庁政復為す可からざるに至れり、故に山城守強ひて彼を起して再び事に従はしめたり、
此歳の七月に至りて山城守齢已に七十に近く、劇務に堪へざるを以て、病と称して骸骨を乞へり、平八郎此事を聞き、一日山城守に謁し謂て曰く、従来の奉行中、宏量、閣下の若きハ未だ曾て之れ有ざる所なり、想ふに閣下を外にしてハ他に不肖を容るゝ人なかるべし、内藤公ハ挙動了々を欠き心裏少しく模糊たる所あり、然れども亦以て閣下の次(じ)と為すべし、他ハ言ふに足らざるなりと、山城守之に答へて曰く、余の在職中、重任厚用、纔(わづか)に卿をして其能の一部を展(の)ぶるを得せしめたり、今余職を辞せバ、後任者恐らくハ卿を用ふる能はざるべし、然れども卿ハ素と百里の才に非らず、区々たる一騎士の職ハ、固より驥足(きそく)を展ぶる所以に非らず、故に姑(しば)らく致仕して以て時を待て、余他日機を得バ必らず幕府枢要の地位に卿を推薦せん、平八郎曰く、閣下の言辱しと雖も、利禄固期する所にあらず、唯従来聊か微力を致せるハ、深く閣下の知遇に感激して忠勤を尽したるのみと、乃ち山城守の辞職の未だ允(ゆる)されざるに先だちて致仕し、養子格之助をして其職を継がしめたり、格之助ハ親戚西組西田清之進 *1の子にして、六年以前養ひて子と為せるものなり、時に平八郎齢三十七歳にして、人其辞職を嘆惜せざるものなし、