その7
『朝日新聞』1898.9.25 所収
朝日新聞 明治三十一年九月廿五日
大塩平八郎 (九) 猪俣生
元来此長吏ハ常に斬殺拷掠の刑を見、悲哀叫喚の声に慣れ、習、性を移し、居、気を易ふるに至りしを以て、其性の酷烈なること言語に絶し、人の生命を見ること蟲介に等し、故に市街近郷を徘徊し、苟も脅して以て金銭を奪ふに足る者とみる時ハ直に捕へて之を仮牢に押送し、又八百新も己が女を薦めて新右衛門の妾と為し、因りて此群に加はれり、而して新右衛門ハ己の屋後に燕室を構へ奢侈華麗を極め、甚しきハ玳瑁を以て紙障を飾るに至り、同悪此に集り、日夜般楽怠敖して兼てハ悪計を講じ、遂に長吏等ハ白昼に於て公然強盗を為すに至れり、
是に於て怨嗟の声都鄙に嗷々(がうがう)たるに至りしも、糺弾の職にあるものハ現に犯者其人なり、逮捕の任に当るものハ乃ち長吏其物なり、殊に新右衛門ハ西町奉行内藤隼人正の寵遇を受け居るを以て、人民も之を訴ふるを憚り、有司も亦手を下すことを敢てせざりき、平八郎此事を知り大に怒りて曰く、奴輩人を慢侮する甚し、吾之が殲滅の任に当らんと、是に於て急に部下を集めて計を授け、卒然衆を率ゐて新右衛門の宅を襲ふて、彼をして疾雷耳を掩ふに暇あらざらしめ、遂に其親戚と相議し新右衛門に迫りて割腹せしめたり、是れ彼の家系を断絶せしめざらん為にして平八郎の情誼の厚きに出でしなり、而して其党与数十人ハ皆捕へて之を獄に投ぜり、新右衛門の家宅を捜索するや臓金三千両を得たり、因て之を無告の窮民に賑恤せり、此騒動ハ真に大阪全市を震動し、有司ハ失神し、市民ハ驚喜し、平八郎の名ハ隆々として起り上下を挙げて尊敬畏懼の念を起さヾるハなく、爾後有司ハ自から警戒を加へ、強豪【犬干】猾(かんかつ)の輩も寂然として息を屏むるに至れり、
是より先き吉五郎、深夜其徒を率ゐて河内の一尼院に入り、公然己が名を称して院尼を殺害し、其財宝を奪ひて去れり、院尼殺害に遭はんとするや数字を書して吉五郎に託して曰く、是れ余が法号なり、死後願くハ之を汝の仏室に貼し忌日に至るごとに、汝(必)らず唱名せよと、言終りて刃を受けたり、然るに今、吉五郎が新右衛門の党与と共に縛に就くや、平八郎其宅を検し、仏室の法号を看怪しみて之を詰る、吉五郎曰く曩(さき)に横死せる河内の院尼ハ、鄙人と俗縁を有せり故に此事ありと、平八郎一喝之を叱して曰く、尼を殺せるものハ必(汝)なり、看よ、此法号中汝の彼を殺せるの意を顕はすに非ずやと、吉五郎初て悟り、其明察に服せり、蓋し法号中吉吾の字に添画増字して彼の己を殺せるの意を顕はせるなり、
「大塩平八郎関係年表」
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