Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.12.10

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「大塩の乱関係論文集」目次


『日本倫理彙編 巻之3』(抄)
その1

井上哲次郎(1856-1944)・ 蟹江義丸(1872-1904)共編

育成会  1901

◇禁転載◇

陽明学派の部 下 序説  (1)

管理人註
  

  【佐藤一斎 略】 大塩中斎、名は後素、字は子起、平八郎と称す。中斎は其号なり。又居る 所の室を洗心洞と名づけ、自ら洗心洞主人といへり。洗心は易繋辞上に所 謂「聖人以此洗心、退蔵于密」に本づくものなり。中斎は徳島藩家老 稲田九郎兵衛の臣真鍋市郎の二男にして、寛政五年を以て阿波国美馬郡脇 町(即ち今の岩倉町字新町)に生まる。幼にして母を喪ひ、母の縁故によ りて、大阪の塩田喜左衛門の養子となり、後故ありて之れを去り、天満町 の与力大塩平八郎の養子となる、時に七歳なりき。然るに養父母倶に其歳 を以て歿す。是を以て彼は教養を養祖父政之丞に受けて生長せり。 中斎は幼少の時に如何なる人を師として学を講ぜしか。世之れを知るもの なし。或は中井竹山に師事せしならんといふものあれども、是れ唯々臆測 のみ、何等の証左あるにあらず。兎に角中斎は少小より文武を兼修し、巧 名気節を以て祖先の志を継がんと欲するの念多く、未だ学問を以て身を立 てんと欲するに至らず、与力の業を務め獄吏囚徒の間に閲歴を累ぬるに及 んで、始めて深く学問の必要を感ぜり。中斎是に於て江戸に適き、林述斎 の家塾に入り、儒学を講究し、刻苦励精、其行の方正にして其進歩の速な る、常に儕輩を凌げり。是を以て述斎も大に望を属し、他の諸生を誡むる や、必ず学問躬行宜しく平八郎に則るべきを以てせり。中斎又学問の余暇 を以て力を武術に用ひ、刀鎗弓銃、悉く其技を修め、殊に鎗術に至りては、 其秘奥を究め、後来関西第一の名を博するに至れり。 会々養祖父重症に嬰れりとの報道に接し、中斎倉皇旅装を整へ、大阪に帰 り、慰籍看護、投薬奉養、一日も怠らざりしも、祖父の齢已に古稀に近き を以て児孫の誠心に酬ゆるに至らず。終に文政元年六月二日を以て世を去 れり。是に於て、中斎家に留まりて、復た与力の業を務む。時に年二十有 六。 文政三年十一月十五日高井山城守実徳、伊勢山田奉行より転じて大阪東町 奉行となれり。彼れ頗る鑑識に富み、窃に中斎の才気絶倫なるを看取し、 忽ち抜擢して吟味役となせり。是れ中斎が二十七歳の時なり。中斎山城守 の値遇を得て、大に其驥足を伸ばすを得たり。当時大阪の吏人、不法無状 を極め、愛憎によりて刑罰を加減し、金銭によりて生殺を取捨するの風あ り、是を以て市民の吏人を畏忌すること蛇蝎の如し。中斎乃ち此弊を一掃 せんと欲し、邪を折き、正を救ひ、奸を懲らし、善を助け、大に刷新の実 を挙ぐるを得たり。就中京都八阪の妖巫益田みつぎを誅戮し、大阪西町の 奸吏弓削新右衛門を割腹せしめたる等、其尤も顕著なるものなり。かく中 斎の治績大に挙がるに従ひ、其名遠近に震動するに至れり。





井上哲次郎
「大塩中斎」
その1

幸田成友
『大塩平八郎』
その7
























儕輩
(さいはい・
せいはい)
仲間。同輩









嬰(かか)れり

倉皇
(そうこう)
あわてるさま






鑑識
物の価値・本質
を見分ける見識


値遇
(ちぐう)
出会うこと

驥足
(きそく)
すぐれた才能


『日本倫理彙編 巻之3』(抄)目次/その2

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