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然れども茲に中斎に取りて甚だ不幸なること出来せり。文政十三年の七月
に至り、山城守齢已に七十に近く、劇職に耐へざるを以て、病と称して骸
骨を乞へり。是を以て中斎復た其望なきを慮り、山城守の辞職の未だ允さ
れざるに先ちて致任し、養子挌之助をして其職を継がしめたり。時に中斎
年三十有七。是れより中斎閑散の身となり、専ら学を講じ、書を著はし、
併せて子弟を教授せり。
天保三年六月古本大学刮目七巻を脱稿して上木せり。是れを彼れが最初の
著作となす。此歳六月中斎藤樹書院を訪へり。此行や中斎藤樹の遺跡を訪
ひ深く感ずる所あり。加之帰路颶風に遭ふて反りて良知の旨意を体認する
を得たり。其後彼れは数回小川村に赴き、藤樹書院に村民を集めて良知の
学を講ぜりといふ。
天保四年洗心洞剳記と儒門空虚聚語とを脱稿して上木せり。剳記は彼れが
独得の学説を叙述せるものにして其主義本領全く此に存すと云ふべきなり。
天保五年増補孝経彙註を著はせり。是に於てか四部の書成れり。曰く、古
本大学刮目、曰く、洗心洞剳記、曰く、儒門空虚聚語、曰く、増補孝経彙
註、是れを洗心洞四部の書となす。かくの如く中斎は其辞職後専ら力を講
学と著述とに用ひしと雖も、高井山城守以後に来たれる諸奉行は中斎の威
望と才学とに服し、其施政に関し、難件あるときは往々彼れに諮詢して之
れを決せしを以て、中斎の勢力は常に隠然諸奉行の上にあり。就中矢部
駿河守は中斎の最も親善せし所なり。
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井上哲次郎
「大塩中斎」
その4
骸骨を乞う
辞職・致仕
を願う
井上哲次郎
「大塩中斎」
その5
井上哲次郎
「大塩中斎」
その6
井上哲次郎
「大塩中斎」
その8
井上哲次郎
「大塩中斎」
その9
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