Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.4.29訂正
2001.4.16

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 平 八 郎」
その1

『異説日本史 第6巻』雄山閣 1932 より


◇禁転載◇

一 挙兵の動機と準備に就て

  一 生立ちに関する新説

 天保八年二月の大塩平八郎の暴動は、評判の割合に、事実は至つて小さく、その徒党といふものも詮じてみれば、極めて少数であつた。これが戦国時代であつたならば、殆ど日常の茶飯事であらうが、二百年打続く昭平の世であり、天下の台所たる殷盛の大阪市中の事件であつたから、まさしく青天霹靂で、世人に大衝動を与へた。また平八郎が名与力として将た学者として三都に鳴響いてをり、その挙兵の趣旨が『万民救ひ』のためであつたため、後世からも大なる関心をもたれてゐる。

 従つて大塩の乱に関しては当時の公私文書や編纂物を始め、後出の著述も随分多く、明治末には幸田成友博士の名著『大塩平八郎』もあらはれた。しかし、その生立ちを書いたものは非常に少く、偶々あつても真偽混淆で何れを採つてよいか分らぬ。これは、与力の役も嫡孫承祖で、祖父から承けたものであるから、成人するまで比較的平穏な年月を送つたためでもあらう。それにしても、生年についてさへさまざまな推説が行はれてゐる。幸田博士の研究によれば、寛政五年の生れで、祖父を政之丞成余、父を平八郎敬高といひ、その養子といふ説もあるが、実子であつたといふ、父母を七歳のときに喪つて、祖父に養はれて、廿六才の時その死によつて文政元年六月番代を命せられた。大塩家は天満橋筋長柄町を東へ入つて南側にあつた。

 平八郎が十五歳のときか二十歳のときに江戸へ出て林述斎の門に入つたといふのは、広く信用されてゐることであるが、これは疑問である。従つて、北新地の遊廓で酒宴してゐるうち不意に江戸へ上つたとか、東下の途中、鈴鹿山で盗賊を懲らしたとか、林家へ入塾中、同窓と吉原へ遊んだが一同無一文であつて、平八郎ひとり三日間人質にとられてゐたとかいふ話は抹殺される訳である。すると、彼の学問はどうして積まれたかといふと、それは独学であつた。しかし、その当初には師についたであらうが、それが何人か解らぬ、越智高洲である、篠崎小竹である、或は中井柳楼であるといふが、いづれも想像に過ぎない。また呂新吾王陽明を研究するに至つたのは何歳のときか、弟子を集めて経を講じたのは何歳のときかは共に不明であるが、幸田博士は文政八年、彼が三十三歳の頃からであらうと言はるゝ。

 かくして、三輪執斎の歿後、久しく跡を絶つてゐた陽明学は、洗心洞中から門弟に向つて、やがて天下に向つて唱へ出された。当時官護の朱子学が天下に風靡してゐる中に、『異説雑説』であると敬遠されながら。天保元年、町奉行高井山城守が辞職すると、その恩顧を想ふて、能吏として名望隆々の際ではあつたが決然として之と進退を共にした。時に三十七歳。在職中には、或は堕落僧侶を検挙し、或は邪教を以て民衆を惑はす巫女を懲らし、或は奸悪な官吏の罪悪を糾断してその贓金三千両を没収して貧民に分配した。しかし退いても高臥して労苦を厭ふを耻ぢ、日夜経籍を播き門弟に教へて倦まなかつた。太虚・致良知・変化気質・一死生・去虚偽の五つを掲げて、そして知行合一を説いてゐた平八郎は、これを以て身を修め、家を斉ヘ、やがて天下国家を治めんとするのを最大理想とした。それで国家の利害・人民の休戚を常に心に案じてゐたのであるが、さりとて一朝にして同志を語らひ白刃を携へて街頭に躍出でたのは何故であらうか。彼は死後、その伝記者は彼を目して逆賊とした。伴信友等は狂儒と嘲つた。しかし大塩の兵燹に罹つて家を焼いた町人は、『大塩様』と尊称し、春潜庵(春日潜庵)は勤王の魁と言つた。かやうに両極に距つた評言の行はれたのは、何が故であらうか。


石崎東国「大塩平八郎伝」その15その23
山口蚓東「読大塩平八郎
大塩平八郎』幸田成友著 創元社 1943


(異説日本史)「大塩平八郎」目次その2

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