大塩の乱 その9 |
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大 塩 平 八 郎 与 力 |
大塩平八郎は東御奉行組下の与力なり。文政の頃切支丹・姦吏・悪僧・盗賊等を誅罰し、其名西方に轟きぬ。此時の御奉行は高井越前守 *1 なりしが、此人江戸へ召返さるると大塩も直に致仕するに至る。其頃年は漸く三十五六才なりといふ。功成り名とげて身退きしなどとて、世間専ら之を惜しみて称美せし事なりしが、其後は己が心の儘に行ひて文武の師をなし、大勢の門弟を引受け之を教へ、其暇には近在は云ふに及ばず尾州辺迄も到りて、心の儘に暮せしといふ。 一時其名高かりしにぞ、近在及び高槻の藩中・桑名・彦根等の藩中にも彼が門人となり、其教を授かりし者多く有りといふ。 然るに近来風水等の変有りて、時候常ならざる故、米殻不作にて其価常に倍々せしに、咋年よりしては至つて米払底に及び、東国筋別して甚し。甲州・南部等に百姓の一揆起り大いに騒動す。何れも米価尊く飢餓に迫れるが故也。 |
致 仕 後 の 行 動 | |
平 八 郎 貧 民 | 世間何れも斯くの如き有様なれば、大坂とても同様の事にて、貧人飢に苦しみ、餓死する者少なからざる故、己れも家財を売払ひ、一人に金一朱づつ一万人に施さんと思ひ立ち、鴻池・米屋・三井・加島屋等の富家に到り、「飢餓にて諸人困窮甚しければ、何卒相応なる施行をなして諸人を救ひくるゝべし」とて、再三其事を頼みしといふ。 |
救 助 に 志 す | |
大 塩 一 件 の 原 因 |
され共何れも諸屋敷出銀の事など言訳して、其事を聞入れざりしにぞ、東御奉行の前に出でて、「金持の町人共へ相応の施行すべきやう、御威光を以て仰付けられ下されよ」と願ひしか共、其事成り難しとて之を取上げなし。 又たとへ施行有りとても二升・三升の米にて、貧人共の取続ぎなるべきものに非ず。公儀御闕所銀数万両これ有る事なれば、之を出し町人共にも道理を悟し、何とぞして飢饉の良民共の食ひ続く程になしやり給ふべしなど、屡々言立てしか共、之を少しも取上げなくて、却て其叱りに逢ひて、目通を退けられし故、之を憤り党を結びて、十九日には両御奉行御巡見にて、川崎東照宮へ御参詣の処を待受けて、これ討取らんとの工みなりしに、 | * | |
平 山 民 右 衛 門 内 通 |
一味の内にて、平山民右衛門 *2 といへる同心其外両人迄、大塩に背き密に御奉行へ内通せしにぞ、奉行には大に驚き、一家中を集めて種々評定ありしといふ。 〔頭書〕大塩が勤役の頃、御欠所金六万両程有りぬ。今は定て之に信ぜし事なるべし。町人の大家に命じ金四万両計り出させ、凡十万両計りの金を以て貧人食ひ続くる様に、一軒前四五百目づつ与ふべし。さもなくして一升、二升の米貰ひしとて、命つなげるものに非ず、何卒麦作の出来始るまで取続くやうになしやり給へとて、再三申立てしにぞ、大に奉行の思はくに違へる事にて、其怒りに逢ひし故、かヽかる大変を引出せしともいひて、種々の風説なせと。 十八日の夜は小泉円次郎 *3・瀬田済之助とて、大塩一味の者泊番に出しに、奉行には訴人有つて、この者共も大塩へ一味の者共なればとて、家来大勢に前後を囲はせ、瀬田を呼出して其詮義有りしに、「私は何事をも存ぜず、小泉に御尋あるべし」と申せしにぞ、小泉を呼出して其事を尋ねられしにぞ、円治郎はつと取逆上にや返答に詰り、さし俯き脇指の柄に手をかけしかば、御奉行の近習、抜打に首を切落せしとも腕を切落せしともいふ。瀬田は之を見るや否や、奉行所の勝手はよく知りぬ、庭に飛下り鎮守稲荷明神の屋根の上に登り、塀を飛下り逃帰り、早々事の漏れたる様子を平八に告げしといふ。至つて高き処より桃畑へ飛下りし事なれば、大に足をくじきからだを損ぜしといふ。
〔頭書〕十九日には両奉行御巡見にて、朝岡助之丞方にて御休息ある事なれば、此処にて討取るつもりなりしに、前夜の騒動にて止めになりし故、手筈大に相違せしといふ噂なりし。 | * |