Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.3.26訂正
2001.2.26

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 伝』 その49

石崎東国著(酉之允 〜1931)

大鐙閣 1920

◇禁転載◇


収録にあたって、適宜改行しています。
また、明らかに誤植と思われるものは訂正しています。

   天保二年辛卯先生三十九歳 (2)




池田草庵之
ヲ林良斎ニ
聞ク良斎ハ
讃岐多度津
ノ人先生ノ
門人ナリ後
ニ出ツ
 
    池田草庵聞書云 大塩中斎は平生精神気魄極めて盛なり、時々昼夜寝ねざ るもの十余日精神故の如し、常に酒を飲ます、飲めは即ち斗半を尽して平日に異るなし、飯は一度に十杯位、およそ路を行くこと一日に三十里、朝は常に八ツに起きて天象を観、門人を召して講論す、冬日と雖も戸を開いて坐す、門人皆堪へす、而も中斎は依然として意と為さす、その気魄の人を圧する門人敢て仰き視ず、その家にあるや賓客の来ること虚日なく、又自ら立ちて門人に武技を教ふ、終日多事なり。而して其の読書該博なること此の如し、抑も又怪しむべきなり。
先生ノ教育
法
洗心洞余瀝云 大塩の教育の模様で御座りまするか、そりや今も申ました様 な有様で中々厳しう御座りましたが、又面白ふ御座りました。
    世の中になにか恐ろしいと思ふものはあるか。

    へいそりや御座ります、断岩絶壁の上に立て下を見れはなんとなくぞつとして気味が悪ふ御座います。

    なに気味がわるい、すれはなぜ気味悪いか、其分けを申せ、岩が転倒(ひつくり)かへるか、下から何者か引ぱりでも致すか。

    へいどうも分り兼ねます。

    分らんことはない、よう考へてみろ。

そのまゝふいと立て往かれます、こなたでは門弟共皆々評定すれとも中々分 らず、暫くすればあちらより大声あげてどうぢや分つたか、いやどうも分りま せん、うゝ鬼神之為徳其盛矣乎、視之而弗見、聴之弗聞、体物而不可遺、 使天下之人斎明盛服以承祭祀、洋々乎如在其上、如在其左右(中庸)をどうみ て居る、貴様らの学問は上すべりしてしまつて少しも身に入らない、土性骨 をうんと叩いてしつかりせにやなにゝなる……一寸こんな風です。

此頃備中阪
谷朗廬(名
ハ素)高槻
藤井竹外
(名ハ啓)
等門人ノ列
ニアリ
又云 私の入塾中に駿河守様の御子息がみえてゞ御座りましたが、毎日の御弁当に山海の珍味を尽されましたので、大塩がそれを見てあまり食すぎます、以後は此方にて致しますとて、翌日は蒟蒻の天ぷらあへを進められました、それから他の塾生への食事は毎日七ツ時に鰻の頭を出されました、御飯の御菜は大抵隔日に鮭鰤などの塩の物があたる計りて御座ります。

早崎岩川名
ハ勝任通称
新平津藩ノ
人洗心洞ニ
学ブ
早崎岩川筆録云 中斎先生ノ其塾生ニ教フルヤ常ニ出衙ノ前ニ在リ、天未タ暁ケズ、塾生悉ク講堂ニ集ル、未ダ幾クナラズ先生手ニ大刀ヲ提ケテ而メ之ニ臨ム、凛トシテ犯ス可カラス、塾生俯伏仰キ見ルモノナシ、講了テ家ニ帰ルニテ精神尚ホ奮興シテ而メ終日倦怠ニ至ラス、其ノ何ノ故タルヲ知ラザル也。

阪谷朗廬伝略云 文政中廬朗従父寓大阪朗廬受四書句読於奥野小山、記誦甚苦、小山以為遅鈍不能成業又学大塩中斎門、門人多愚弄之、中斎独奇之曰異日成大名、天保三年父挈家徙于江戸、中斎請留朗廬教之、以幼辞、中略 於是文名藉甚、嘗作文寄小山、小山驚瞠、深慙其無鑒識、而人皆服中斎云々 近世偉人伝朗廬墓誌

是ニ依テ洗心洞ニ於ケル学問ノ一班ヲ見ルベシ、乃チ先生ノ名相伝テ真儒新タニ起ルト為シ、遠近争テ交ヲ求ムル者多シ。

塩田士鄂名
ハ華字陳敬
隨斎ト号ス
通称又之丞
也
小竹畏中斎
如虎
塩賊伝云 歳之辛卯、余遊津藩、講官塩田士鄂為余語曰、子未見大塩中斎乎、中斎新有真儒声、華昨遊坂、欲必見之、嘱篠崎承弼紹介、承弼中斎如虎、不輙肯、曰若子粗暴、必俾弼獲罪中斎、他人可矣、中斎則不可、華遂不得而見也、余始知大塩某其人又為吾徒先輩所欽嚮。塩賊伝附録


石崎東国「大塩平八郎伝」目次その2(年譜)
その48その50

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