Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.8.14訂正
2001.5.24

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 伝』 その81

石崎東国著(酉之允 〜1931)

大鐙閣 1920

◇禁転載◇


収録にあたって、適宜改行しています。
また、明らかに誤植と思われるものは訂正しています。

   天保六年乙未(是年七月閏)先生四十三歳 (7)

潜庵時ニ年
二十五歳也

是年十二月京師久我家ノ諸大夫、春日仲襄 号潜庵 浪華ニ来リ先生ヲ訪フ、是日偶々先生祖先ノ祭祀 建碑祭 ニ会シ謝シテ会ハス。

    春日潜庵伝云 大阪町奉行組与力大塩平八郎、王学を唱へ其名一時に喧し、潜庵甞て大阪に遊ひ、大塩氏の門を叩き面晤を乞ふ、其日偶ま父の忌辰なるを以て辞せり、潜庵遂に行くを果さす、其の後平八郎乱を煽動せしを以て、京都両町奉行等潜庵を目して平八郎党となし百方捜索す、然れとも其証跡なきを以て禍を免るゝを得たり云々。 鉄華書院 陽明学第二巻第二十号 春日仲淵述

慥斎此ノ時
二十七歳
是年土州藩臣奥宮正由 慥斎 知ル所浪華ノ易学者八松旭山ノ紹介ヲ得テ、書ヲ先生ニ致シテ益ヲ乞フ、是ヨリ交際密ナリシト云フ。

    土佐王学系統云 亡父 慥斎 は当時大阪に居 八松旭山と云ふ易学者の紹介を得て、大塩氏と親密の交際を為し、学問上に就て書面の往復すこぶる頻繁なりき、而して大塩氏の書面中来年は土佐へ遊ふべしとのことを認めありし趣にて、それが為に八松旭山大に心痛して、亡父に通信して云ひけるやう、先きつ年貴下に大塩を紹介せしが、こたび大塩はかくかくの事となれり、されは嫌疑を受くるも計り難たければ往復の書面残らず焼き棄つ可しと、こゝに於て亡父は世間への憚りもありて該書面は残す所なく焼き払はれたり、今より之を考へ見れば焼き棄つる迄には及ばざりしものをと甚だ残念に思はるゝ也。 鉄華書院発行 陽明学第三巻三十三号 奥宮正治氏口演

    慥斎雑稿云 二月二十八日夜幽石を訪、幽石云、五十嵐生大塩氏の所著学則一編を携へ来り示す、即ち披覧するにかねて余の所見とは大に異にて実に所見慥なること瞭然たり、其意皆余姚の真面目にして聖学の薀奥を述べたりとぞ、大旨は或問の体にして後に語録のごときも附たりとぞ、尚委しく語りて浪華に一同志を得たるを喜ぶ、余もかねて大塩氏の見る所あらんことを思ふ果して今かくの如き則ち余が所思暗に中れり、方今天下学を好むの人有をきかず、徒に冊子を守り或は詩文を弄しなど、さまさま狂奔して更に道の何物たるをしらす、暝然として此生を過るもの滔々天下是也、余幽石と常に之を歎して已ます、方今天下人無しと云も可也と今にして思へは浪華已に大塩氏在、無好人の三字は有道者の言に非すと思ひあたりぬ、決して今より後天下人なしと云ふべからず云々。 天保六年日記抜萃

幽石、五十
嵐生及ヒ八
松旭山ノ事
蹟未タ分明
セサルヲ惜
ムノミ
是ニ因テ之ヲ観レハ奥宮慥斎ノ先生ニ交ヲ訂セルノ天保六年二月以降ニアルヲ知ル、盖シ先生ノ学名ヲ聞クノ久フシテ其ノ真ヲ知レルハ幽石ニ聞クニ依リ、幽石ノ之ヲ知レルハ五十嵐生携フル所学名学則ヲ見ルニ依ル、慥斎一タヒ之ヲ聞ク、則チ八松旭山ニ依テ紹介ヲ求ムルナリ、慥斎ノ学ニ忠ナル又先生ノ学名高ク其ノ影響ノ大ナルヲ概見スベシ。

是年秋美濃ノ民蜂起ス、豪戸ヲ壊リ、官廩ヲ襲フ、騒擾日ニ亙リ、官民死傷多シ、先生慨然之ヲ賦ス。

    突然来為暴。
    斬人如斬麻。
    公然忍為賊。
    何人不歎嗟。
    憶昔六十余州土。
    官吏如虎士似鼠。
    今夕是何夕。
    忽然鼠変虎。
    君不見三百年昌平恩。
    秋花秋月恐游歓。

 


石崎東国「大塩平八郎伝」目次・その2その2(年譜)
その80その82

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