Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.6.6

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 伝』 その85

石崎東国著(酉之允 〜1931)

大鐙閣 1920

◇禁転載◇


収録にあたって、適宜改行しています。
また、明らかに誤植と思われるものは訂正しています。

   天保七年丙申先生四十四歳 (4)

天明以後ノ
大飢饉

是年二月以来霖雨止マズ、五六月ノ候冷気甚ダシク七八月暴風雨頻リニ至リ五穀熟ラズ、天下是ヨリ大ニ飢ユ、蓋シ天明以来ノ飢饉ト称セラル。

    天満水滸伝云 天保丙申の春より霖雨降続き、三伏の盛夏の時だも麻衣を着する日は稀にて、諸国一体に冷気なれば、稲生立たず、麦稗等其他の雑穀も茂りやらず、穂に出づべき頃、奥羽の間は六月十五日暴風雨あり、関東には七月十六日大風雨にて大木を抜き、人家を倒し、同じく八朔の暁頃、再び関東大風雨にて北の方より吹起り、西南東海道筋に吹き及ぶ、又都近き地方には近州より東へと、同月十二日大風雨起り、古来未曾有の凶歳にて、損害挙て数へがたし、是が為め諸国の交通止まり、人歩行せず、田稲悉く流蕩して終に饑饉の惨状を現出し、米価踊躍して三百文に及び、餓死するもの道路に充満し、目も当てられぬ有様なり云々。

    天保饑饉物語云 四年の飢饉より中二年を隔て、七年の夏は陰陽いよいよ順を失し、六七月に至れども陰雲四合、日光を見ること稀に、風気陰冷、人々皆冬衣を着し、扇を手にする日なし、六月廿一二日頃には処々白毛を降らす、長短斉しからざれども長さ二尺に余るもあり、馬毛に類せり、かゝる変異のことありしゆゑ、世人愈危ぶみ如何なる天災のあらんと案ぜしに、果して天下一般の大飢饉となりて、五穀みのらず、菜蔬菓物の類まで何一ツとして熟せるものなし、此歳も奥羽の災殊に甚しく、岩城の辺にては草木根芽はいふに及ばず、鶏犬猫牛馬の類まで食尽し、夜にまぎれ出で麦苗の一葉を生ぜしを抜取るもあり、桃生牡鹿の両郡は餓死せしもの幾千人にも及ぶべく、秋の末までは餓と呼びて泣き叫ぶ声を聞きしが、後には其声も絶たり、路傍に斃れし餓は犬など噛みちらし、血肉狼藉実に目も当てられずとなり云々。

甲州百姓一
揆起ル
是年秋八月甲州都留郡八十余ケ村ノ百姓蜂起シ、一万八九千人甲府ニ迫リ、窮民ノ救済ヲ訴フ、官府許サズ暴民遂ニ豪戸ヲ襲フ、人心恟々タリ。
先生甲山ニ
登ル
是年秋八月先生門人数輩ト共ニ六甲山ニ登リ、詩ヲ賦シテ胸中ノ欝陶ヲ遣ル。

      天保丙申秋登甲山 二首
    
    曾遊二十二年前。
    林壑再尋依旧新。
    今日思深似前海。
    彷徨不独為詩篇。
    人随無事酔明時。
    柔脆心腸如女児。
    却衝秋熱攀山険。
    誰識独醒愼独知。


森林公園からの甲山甲山中腹の神呪寺

「森林公園からの甲山」 「甲山中腹の神呪寺」
(大塩二郎氏撮影 2001.5、2001.6)


石崎東国「大塩平八郎伝」目次・その2その2(年譜)
その84その86

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