「大塩の乱関係論文集」目次
大鐙閣 1920
◇禁転載◇
天保七年丙申先生四十四歳 (5) | |
矢部駿州勘 定奉行トナ リ江戸ニ移 ル |
是年九月西町奉行矢部駿河守定謙勘定奉行ニ任ジ江戸ニ移ル、冬十一月堀伊賀守利堅之ニ代ル。 矢部駿州名ハ定謙通称彦五郎、其先ハ今川氏ノ小侯、父ハ定令駿州ハ其第一子、寛政六年ヲ以テ生ル、先生ト同甲八歳ヨリ十六歳マデ父定令ニ従テ界浦ノ官舎ニ長ズ、少ウシテ侠名アリ、長ジテ清直謹厚、仕テ騎番士トナリ累進シテ堺奉行トナル、 堺浦ハ先君ノ任地定謙従テ長ズル所、父老之ヲ聞テ喜ブ 東湖ノ詩ニ『一朝擢為堺浦尹、父老歓欣待路岐。吁嗟令郎何太長。刮目共恨発令遅』 ト蓋シ実況ナリ、 駿州堺ニ在ル佳績多シ、就中堺浦甲乙兄弟産ヲ争ウテ相鬩グモノアリ、定謙「なきなぞと人にはいひてありぬべし心の問はゞいかに答へむ」ノ一首ノ古歌ヲ詠ジテ此ノ難獄ヲ解キタル如キ一世ノ美談トシテ北村季文ノ「堺の浦風」ニ伝フ、 天保四年転ジテ大阪町奉行トナル、最モ先生ト交好シ、先生時ニ隠退スト雖モ事務決シ難キモノアレバ就テ諮問シ延召ノ時ノ如キ其待遇賓師ノ如シト云フ、 在任三年此間佳績多シ、最モ人口ニ膾炙スルモノ石州浜田ノ廻船問屋八右衛門ノ外国密貿易ヲ検案シタル如キ、竹島密商事件トシテ名アリ、 天保四五年ノ飢饉ニ当リ米価ヲ調節シ窮民ヲ救済セルハ最モ其経済的施設ノ宜シキヲ見ルベク、当時市民ノ落首ニ「やべうれし駿河の富士の山よりも名は高うなる米は安うなる」ト謡ヘル如キ市民謳歌ノ声ナラザルナシ、 今茲再ビ諸国飢饉ノ声高シ、関東関西米価日ニ騰貴シ、奸商乗ジテ買占ヲ行ヒ暴利ヲ計ル多シ、駿州之ヲ憂フ甞テ一奸商ヲ沙汰スルコトアリ、
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買占調仗 |
当時ノ記録ニ云フ
駿州かねて此事を察したれば、予め富商ともに諭して曰く、己れの利のみを希ひて、衆民の困苦を顧みざるは人間にあるまじき行なり、汝等ゆめゆめ買占めなんど、非道の事をなすべからずと懇切に戒めつゝ、尚ほ組下の同心に言含めて、監察の手配り大方ならざりしが、果して或る豪商密に北国米を買入れて、毎夜己が河岸蔵に積み入るゝものあり、駿州之を聞き彼の米全く積入るゝを待ちて、其商人を呼集め、顔色を和げて問て曰く、汝が河岸蔵の前を過ぎりしに、幾多の人の足音して苞やうの物を積み入るゝを見たれども、固より微行なれば提灯も持たせず、宵闇のほの暗くして如何なる物とも見分けざりき、かねがね諭し置きたれば、吾も之を米なりとは思はねども、念の為に尋ねんと欲すと、商人答て曰く是れ炭なりと、駿州笑て曰く、吾れも左あるべしとこそ思ひたれ、幸に奉行所にても炭に事欠きたる折なれば、其炭あらん限り買上げとらすべし、孰れにしても何方へか売らんとするものを、一時に残りなく買上げんことは冥加の至りならずや、直に受書を出すべしと、商人語窮し、已むなく受書を出して退きぬ、駿州乃ち同心を遣はして、十棟ばかりの米庫へ一々封印を付け苞数に照らして炭の価を与へぬ、適ま米価益々貴く、細民の飢に叫ぶもの多かりしかば、再び彼の倉庫の戸を開かせ、悉く炭の価もて売り与へしが、此高合せて三万五千苞と聞えぬ(川崎紫山著幕末三俊伝) |
矢部駿州常 ニ人ニ語テ 曰ク我レ平 八郎ヲ得テ ヨリ啓沃ノ 益ヲ得ル少 ナカラスト 毎ニ之ヲ推 称ス 跡部城州町 奉行ノ心得 振ヲ駿州ニ 問フ駿州先 ツ先生ノ人 物ヲ推称ス |
駿州ノ明察徳政斯クノ如シ、是ニ至テ抜擢セラレテ勘定奉行トナル、市民此名奉行ノ去ルヲ惜マザルナシ、而シテ独リ先生アリ市民ノ望ヲ負ヘリ、初メ駿州幕府ノ召命アリテ上府スルヤ、恰モ跡部山城守良弼大久保讃州ノ後ヲ承ケテ東町奉行トナル、跡部城州駿州ニ就テ大阪奉行ノ故事並ニ政治心得ヲ問フ、 駿州一ニ先生ノ人物ヲ称シ、挙テ政治ヲ顧問スルノ便ヲ説クト云フ、亦以テ駿州ノ先生ヲ信ズルノ厚キヲ知ルニ足レリ。
東湖又詩アリ、矢部駿州ヲ祭ル詩中ニ云フ。
浪華商賈多豪猾、 風俗自有豊公遺、 老吏平八尤沈鷙。 崛強動不肯指麾、 使君撫治得其道、 政蹟于今伝口碑、 昊天不弔降災害、 丙申丁酉歳荐饑。 老者転壑壮者去。 空見飢鳥啄人屍、 使君遂遷司農職、 征旆未帰民相嬉。 誰知尹帰未数月。 平八構難驚王幾、 称湯称武迹雖迂。 因時乗勢事頗危。
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川崎紫山著「矢部駿州」(『幕末三俊』より)
小山松吉「矢部定謙」
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