Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.11.10訂正
2000.11.9

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 伝』 その9

石崎東国著(酉之允 〜1931)

大鐙閣 1920

◇禁転載◇


収録にあたって、適宜改行しています。
また、明らかに誤植と思われるものは訂正しています。

   寛政十一年己未先生七歳
*1
先生父平八
郎敬高卒ス。
是年夏五月十一日先生父平八郎敬高卒ス亨年僅ニ三十歳、天満成正寺(日蓮宗)ニ葬ル。*1

大塩平八郎余説云 平八郎敬高寛政十一年三十歳にして歿すといへば明和七年の出生で、明和七年は父政之丞十九歳、継室西田氏六歳 両人の沒年と亨年とより逆算す となる勘定故、平八郎敬高は先妻の生む所であつたといへる。継室西田氏の墓の側に五輪塔の稍小いものがある、中央には本種院妙因日量 右には秀顔童子、左には暁夢幼孩 と題し、台石に大塩氏とあるは或は政之丞の先妻か云々 幸田成友氏著大塩平八郎附録

    中斎余談云 大塩政之丞の妻は阿波美馬郡岩倉村字新町真鍋市郎方へ妊娠中来りて滞在せしことあり、夫の許を辞するに臨み必ず男子を生みて帰るべし、若し女子を生まば帰宅すべからずと言はれしが女子を分娩せり、然るに真鍋家に相前後して男子出生せしにつき其子を換へて帰坂せる也、是れ即ち平八郎にして市郎の孫に当り、自分の祖父 三宅弘 と従兄弟の関係を有する次第に候 三宅甘谷氏書翰

按ズルニ大塩政之丞先夫人ニ就テハ大塩余説ノ本種院妙因日量ヲ以テ是トスルハ衆説一致セルモ、俗名姓氏沒年享年ノ確証取ルベキ無キハ遺憾ナリ、若夫後説ニ至テハ其ノ出身ノ阿州脇町トスルノ或ハ拠ル所ナカラストスルモ、換子ノ説ノ如キハ他ノ養子説ヨリ訛伝セルモノナルニ過キス、断ジテ信ズ可カラズ。


年表参考

聖堂改造、堀田仁助北海道の舟運を始む
○清国福寧の賊勢猖獗
○仏国欧州連合軍と戦ふ、十一月奈【孛攵】翁ヂレクトリーを廃し、翌日五百人議会を解散す。(万国大年表)

   

石崎東国「大塩平八郎伝」目次その2(年譜)
その8その10

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