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凡そこれらの暗示的な場面は、第二章の東町奉行所の内部の情景では、
もつと緊迫した行動となつて展開せられる。即ち密告によつて東町奉行
所そのものの内部にも陰謀の荷担者がゐるといふことが判る。「意思の
確かでない奉行跡部は」それまで疑惧してゐたが、「突然決心して」当
番役人中の陰謀荷担者の瀬田と小泉に手を著けることにする。役所の近
習部屋で小泉が殺される。第一の血が流れた訳だ。瀬田は逃れる。「そ
して天満橋を北へ渡つて陰謀の首領大塩平八郎の家へ奔つた」といふと
ころで、はじめてこの陰謀の中心人物へと物語の視線が近づいて来る。
第三章から第四章にかけて、描写は、大塩平八郎の奇矯なる激烈なる
性格と、その周囲の陰謀団の内部に於ける意見の不統一、それによる同
志討、といふ風な、この運動自体の内的欠陥と、そこから醸し出される
陰惨な雰囲気の面に移る。いざ打ち立たうとする一瞬の間に、大塩平八
郎の「熱した心の内を、此の陰謀がいかに萌芽し、いかに成長し、いか
なる曲折を経て今に至つたと言ふことが夢のやうに往来する」のである。
そして天保三年の天候不順から四年の東北洪水、五年の炎天、六年の虫
害海嘯、七年の大風大火に打ちいためられた民衆の飢饉の疾苦、それに
対する「町奉行や富豪の」無為放任を見かね「とうとう誅伐と脅迫とに
よつて事を済さうと思ひたつた」平八郎の心事が説明されてゐる。
しかし、今日となつて、平八郎自身にも事の成算覚つかないことが予
感される。「けふまで事柄の捗つて来たのは、事柄其物が自然に捗つて
来たのだと言つても好い。己が陰謀がを推して進めたのではなくて、陰
謀が己を拉し走つたのだと言つても好い。一体この終局はどうなり行く
だらう」と平八郎が沈思してゐる間にも「事柄は実際自然に捗つて行く」
のである。もはや動き出した力は大塩の手では制禦出来ないのだ。大岩
石は手から離れた。落下する運動はそのデモニッシュな暴力を発揮して
破壊と放火によつて鹿台の財を発散せしめたばかりでなく、それ自らの
必然的な力の法則によつて、その首領的指導者達自身の運命をも破壊せ
ずには措かなかつた。岩塊は微塵に砕け散る。陰謀者達は夫々四散する
が、殆ど残らず捕へられてしまふのである。
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森 鴎外
「大塩平八郎」
その2
「大塩平八郎」
その5
海嘯
(かいしょう・
つなみ)
捗(はかど)つて
デモニッシュ
悪魔的な
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