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紙屋幸五郎に逢つて今日まで、大勢の厄介となつた礼を述べ、偖おゆう
とお峰の両人に、今日の次第を物語り、平八郎父子は自滅の覚悟であるか
しか/゛\ ふたり
ら、云々の遺言があると、自殺を勧めて見ました処が、両女の云ふのには、
いよ/\
命を惜しむのではないが、まづ逃げらるゝ処まで逃げて、愈 身の置き処
が無くなつてからにして下さい、今両人が自殺をしては、弓太郎なりおい
せんど
くが路頭に迷ふから、此二人の子の先途を見てから死にたいと云はれて見
ほだ しひ
ると、忠兵衛も娘の頼み、孫の身の上、恩愛の二字に絆されて、強て死ね
いひかね
とも言兼まして、二十日の早朝、大工の作兵衛に荷物を持たせ、足弱の女
や子供を連れて、忠兵衛は、伊丹を立出で、能勢の山越えに丹波路から、
京都へ這入つたのが廿三日の事。
なか/\
モウ其頃は京都の宿屋でも、旅客の詮議が却々厳しうございますから、
三條や五條辺の宿屋へ立寄つては危ないと思ひ、本願寺参りの信者と云ふ
やどや
事にして、七條の播州屋吉兵衛と云ふ宿舎へ泊つて、身を潜めて居りまし
たが、廿七日に京都町奉行の手に捕はれ、一応取調の上、廿九日に至つて、
一同は大阪へ引渡されまして、忠兵衛は入牢、おゆう、おみね、弓太郎、
うま
おいく、また下女のおりつも獄家に繋がれ、作兵衛は旨く逃げて了ひまし
た。
お峰は何分にも産後の悩みに其後間もなく牢死をいたしましたが、弓太
郎も続いて死んで了ふ、忠兵衛とおゆうは度々引出され、平八郎父子の行
きうもん のち
方を糺問されますが、素より知らない事ゆえ、唯存じませぬとのみで、後
お
には幾ら尋ねられても、また責められても、無言で居つたとの事でござい
ます。
か
お話し変つて、彼の守口の白井孝右衛門は、十九日の日暮前、愈 戦ひ
に利なくして、皆散々ばら/\に逃げ出しましたる時に、平八郎父子と瀬
田済之助、渡辺良左衛門、庄司儀左衛門、柏岡源右衛門、西村利三郎、前
田軍次、高橋九右衛門、杉山三平等と共に平野町から、避難者に紛れて、
のが か し
八軒家まで辛うじて遁れ出で、河岸を見ると一艘の船があつたのを幸ひを、
べり
一同がドカ/\と其船に乗込みました、船縁の処に小さくなつて居た船頭
の直吉は驚いた、孝右衛門は守口に住つて居るだけあつて、艢揖を使ふ事
を知つて居りますから、直吉を叱り附け。
お なかほど
孝『サア己れが手伝つてやるから、此船を中流の処へ出せ』
と手に持つて居る処の抜身の槍を目の先きへ突出したので、直吉は驚い
もやひ
て、直ぐに纜を解いて船を出しました、そこで一同は目に立つ武器や、
血に染つた着込みなどを、川中へ投込んで了ひました。
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幸田成友
『大塩平八郎』
その156
石崎東国
『大塩平八郎伝』
その93
前田軍次
茨田
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