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三『私も一つ頼みます』
主『お前さんも風邪を引いたのかな』
三『左様です』
あるじ
と云つて剃らせて居りますと、床屋の主人が。
い うつ
三『貴下方は何処へお出でになるのか知らないが、高野山へ迂かりと登
らうものなら、飛んでもない災難に遭ふかも知れませんぜ』
わざ ふところ
孝右衛門は態と懐中から、お経の巻物を出して読む真似をして居りまし
たが、主人の言葉を聞いて。
孝『高野に往くと災難に遭ふとは、如何いふものかな』
いくさ
主『そりやア知りなさるまい、何でも昨日とか、大阪の方で、戦争がお
つぱじまつて、其落武者が高野の御山へ、逃げ込むだらうと云ふので、此
村なんぞは街道でないからそんな事もねえけれど、高野街道の方は、大阪
から、お役人方が鵜の目鷹の目で、高野山へ登つて行くさうです、だから
他国の者で怪しまれでもすると、一寸来いを食らつて吟味をされる事は云
ふまでもねえ事だ、私も漸く今の先きに人から其話しを聞きましたのだ』
是れを聞いた二人は、胸にギツクリ、こりやア高野へは行かれない、能
こ ゝ
くマア此床屋へ立寄つた事だと思ひ、両人は此家を立出でましたが、扨行
くべき処がない、兎も角も京都には諸宗の本山も多く、寺院もまた沢山あ
るから、一先づ京都へ行つて見やう、斯うして坊主にまでなつたのだから
と、二人が相談をした上、道を転じ、北河内の枚方へ出て、此処から三十
石船に飛乗をして、伏見へ向ひました。
ぼうず やつ
白井孝右衛門と杉山三平は、頭を剃つて僧侶に身を窶し、伏見へ上陸す
そろ/\
るまでは何事もないから、叙々と京都の方へ行かうと、豊後橋を渡りかけ
ました、処が伏見奉行加納遠江守の組同心二人は、数名の手先と共に、橋
詰の髪結床、また餅を売つて居る店などで、此落人等を召捕る為めに網を
張つて居りました。
今二人が豊後橋へさし掛る姿を見ると、一人は袈裟衣を着て居るが、衣
の下からチラチラと見える着物が、僧侶の着るものでない、今一人は矢張
き
り縞の着物の上に袖の無い羽織を被て、腰衣とも見える前掛を纏つて居る、
たゝ
夫れに頭は剃つてから日が経ないから、青々として居るが、其剃つた痕が
さかやき まだ
どうも怪して、髷のあつた者が俄に坊主になると、月代の色が斑らである
から、直に夫れと知れる、偖こそ迂散なりと、ツカ/\と傍に立寄つた同
心の一人。
同『コリヤ貴様は何だ』
孝『私は真言宗の僧で、是れから東寺へ帰る者で……』
同『名は何と云ふ』
孝『エツ、名は……』
と云つたが、早速に名が出ない、同心は孝右衛門の姿に目を留めて見る
と、衣の前の合せ方が違つて居る、真言宗の僧は、衣を左前に合して着て
居りますが、そんな事を知らないから、孝右衛門は、普通の着物と同じ事
に合して居りますから。
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幸田成友
『大塩平八郎』
その153
石崎東国
『大塩平八郎伝』
その121
『塩逆述』
巻之十二
その2−3
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