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時は将に天保八年酉の二月十九日の暁天、大塩平八郎に加担の人々は、
やしき おほづゝ ときのこゑ
第一番に朝岡助之進の邸宅に大砲を打込み、一同は鯨声を揚げ、尚ほ平八
郎は再び我邸宅へは立帰らぬと云ふ覚悟でございますから、自分の家にも
火を放ち、組屋敷の内でも、日頃意見の合ぬ者の家には、容赦なく火を放
ちまして、天満の十丁目筋に出ました、此十丁目と云ふのは、御案内の如
いでたち
く、天神橋筋の事で、同勢凡そ三百名ばかりが、何れも異様の扮装をして
さむらい すくな
居ると云ふのは、武士は尠いが、百姓等が沢山居りますから、其者等に一々
武具を着せると云ふ事は出来ません、夫れゆえに、中には百姓一揆の如く
縄襷をかけて竹槍を持つて居る者もある、また斯うなりますと、誰彼の差
別はない、往来を歩いて居る者を片ツ端から引捕へて、味方に引入れるの
よんどこ
で、拠ろなく二三町同勢に加はつて、途中からコソ/\と逃げる者もあり
つ うち
ます、また面白がつて従いて行く者もある、其中に夜は全く明放れました。
扨両町奉行は、事を未発に防がうとして居る中に、斯う云ふ騒ぎになり
ましたから、早速大阪御城代土井大炊頭へ急使を立てましたが、夫れより
先きに、早くも此事を知つたる御城代には、スワ一大事と大手桝形御門に
は二挺の大砲を据え、大炊頭をはじめ一同には、小具足に身を固め、其上
き
には火事羽織を被て、御城を警戒する事に相成り、御本丸御殿は菅沼織部
正の人数を以つて固め、また御代官池田岩之丞には川崎の建国寺には、東
おんやしろ
照大権現の御社がございますから、馬に鞭打つて駈附けましたが、早や其
時に建国寺は炎に包まれ、今にも神君の御社に火が移らんとする処を、武
おし なにがし
州埼玉郡忍、御知行は十万石、松平下総守殿の留守居何某が、猛火の中を
潜り/\て、御神霊を取出した処でございました、此忍藩の蔵屋敷が、即
ち東照宮の敷地でございまして、御社を守護の役を承まはつて居ります、
何故平八郎が此忍の屋敷にまで火を放つたかと云ふと、此権現様の近火が
あれば、必らず両町奉行は出張せねばなりませんから、此辺に火の手が揚
れば、跡部山城守も、堀伊賀守も来るに違ひない、来たれば、両町奉行を
一時に、砲殺しやうと云ふ計略で、大砲を打込ましたが、両町奉行が来ぬ
うち
中に火が拡がりまして、騒ぎが大きくなつたので、此処に奉行が来るのを
待つては居られないから、東天満を焼立て、天神橋を渡つて、目差す処は
北船場の富豪の家、小口から焼立てやうと十丁目筋を武者押に、大川筋へ
と押寄て参りましたのは、今日での午前十一時頃でございます。
くろけむり さなが
モウ此時には東天満一円は、黒烟立昇り、白昼ながら朦朧として宛ら月
うち あすこ
触の夜の如く、其中に彼処でも此処でも、火が燃え出して居りますから、
ひつかゝ
町人共の狼狽は譬ふるに物なく、老を助けて逃げる者、子を引抱へて走る
者、右往左往に入乱れて泣き叫ぶ有様は、実に形容するに言葉もない位で
ございます。
さわぎ
扨また騒が大きくなりましたので、摂津尼ケ崎の城主、松平遠江守の手
勢、泉州岸和田の城主、岡部内膳正の手勢、いづれも大阪に駈集まりまし
て、大手の馬場御濠端に陣を張り、矢張り大砲を据えて警戒をして居りま
す。
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朝岡助之丞
石崎東国
『大塩平八郎伝』
その114
幸田成友
『大塩平八郎』
その130
相蘇一弘
「大塩の乱と
大阪天満宮」
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