Я[大塩の乱 資料館]Я
2013.12.4

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大塩平八郎』

その87

香川蓬洲

精華堂書店 1912

◇禁転載◇

第十八席 (1)

管理人註
   

 また堺奉行の曲淵甲斐守には、火防ぎの役として、早くに大阪へ駈け附 け、御目附の代としては中山半左衛門、犬塚太郎右衛門は馬を飛ばして見 廻つて居ります、安治川、木津川の浜手には御船奉行、本多大膳正の手勢                   おほづゝ に船手与力、同心等を相添へ、是れにも大砲を備へ、敵来たらば打放たん との勢ひを示し、大阪市中は修羅の巷と一変いたしました。  尤も堂島、中之島、其他にあります処の諸大名の蔵屋敷では、いづれも 在阪の諸役人等は、火事装束を着しまして、屋敷の門には武器を押ならべ、 イザと云へば対戦の覚悟をいたし、近き所は皆本国へ早打を以つて、此騒           動を報らせまする位、然れば和州郡山、柳沢甲斐守の同勢などは、暗り峠 に陣を張り、使番は早馬を以つて御城代土井大炊頭へ其旨を相達し、指揮 を待つて居ります、尚また玉造口、青屋口、京橋口、尼木御門、東切手御 門、築地門柵外、大手先本町口、天神橋南詰などは御定番、また御加番、 大阪附近の藩々より出張して、厳重に警戒をいたして居りました。         ま へ  大塩の同勢は前席にも申し上げます通り、十中の七八までは百姓だの、 または野次馬のワイ/\共、夫れでなければ無頼漢の集まり勢でございま すから、少しも規律が立つて居りませが、唯大勢を頼みに天神橋の方へ押 寄せて参り、今や橋を南に渡らうとすると、最早南詰には西町奉行堀伊賀 守の人数が固めて居りまして、天神橋の南詰の橋台より、橋板を五六間ば かり着り落としてありますから、モウ渡り越す事は出来ない。                             か し  大塩勢は斯くと見るより、ソレ引返して浪花橋へ行けと、河岸通を西に 向ひ、堀川に架けたる処の太平橋を西に渡りましたが、此処に大根屋小兵                           そのころ      かねも 衛と云ふ分限者がございまして、本願寺の賄ひ方を致し、当時評判の金満 家だから、此家を目掛けて大砲を打込みました。  此大根屋と云ふのは、唯今も難波橋の北詰に、相変らず家宅を搆へて居 ります、大根屋では此騒ぎに、先刻家内の人々は逃げ出して誰も居りませ んから、大砲を打込んで置いて、家の燃える其中へ乱入し、土蔵から金を                出す、衣類を出す、中にも腹の空いた連中は、米櫃にあつた飯を喰ふなど、              こ ゝ  ちよつと 実に乱暴の限りを尽くし、此家で一寸息を休めて居りますと、町奉行の手                  さしず では此浪花橋も切断せよと、人夫等に指揮をして居りましたが、今大根屋             つぶ へ打込んだ大砲の音に胆を潰し、其儘にして人夫共は逃げ出しましたから、 大塩勢は橋板を踏み鳴して渡つて、今橋二丁目、鴻池善右衛門の宅へ大砲                    か ね く ら     ぐら を打込み、火の手の上るのを見て乱入し、金倉庫、衣裳庫、道具庫など幾 戸前もある土蔵の扉を開いて、其中より多くの金品を取出しました、此時 に向ふ側の鴻池庄兵衛、鴻池善五郎の宅などへも火を放ち、庄兵衛方では 数万両の金を、奪ひ取つたと云ふ事でございます。

半左衛門


石崎東国
『大塩平八郎伝』
その117

幸田成友
『大塩平八郎』
その133 

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(天保八年)

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(天保八年年頭)

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(天保八年)

























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寒天仕入れ問屋
養子小右衛門は
各藩の財政改革
を行った


豪商等所在地図


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