遺書
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其大意に、区々たる一包裏の汗血は数十年ならずして衰竭に就く、
されば今日忠孝の具たるを併せ得たる我は天下の幸甚人である、
噫慷慨難に赴くは易く従容義に就くは難し、明智光秀の宇野某に
於ける、将門の六郎公連に於ける、身首を異にするも遂に能く其
心をにせしむる能はず、人世詩本粉本の称ありといふべしとあつ
た、良之進は吃驚して、尚よく事情を聞糺さうとする中に、矩之
允は便所へ立ち、又塾外では大井正一郎と安田図書との話声が聞
える、先生の御申付により矩之允殺す、若し逃出すやうなことが
あつたら取押へてくれろとの正一郎の声音だ、彼は慌てゝ便所へ
赴き、右の次第を告げると、承知して居る、最早立退く隙もない
が、正一郎を出抜き、今一度平八郎に面会したく、隠れて居る次
第、其方は見咎められざるやう立退けと言はれたが、師匠の大事
と良之進は猶予決しかねてゐると、矩之允の為を思はゞ早々立退
き、最前の碑文を権之進に渡してくれよ、然らずば我が潔白の心
事も知れ難く、残念なりと再三の言葉に、漸く気を取直して塾中
に取つて還し、混雑に紛れて裏口から抜出した、正一郎は図書と
相談の上彼を塾外に見張番とし、自分は進んで便所口に待つて居
たが、一向矩之允が出て来る気合の無いので、刀片手に戸を明け
ながら、先生のお差図と声をかけ、立上つて来る矩之允の胸元を
刺し、蹌踉く所を斬付け、乗掛つて止を刺し、短之允を討留めた
りと高声に呼はつた、乱後短之允の屍を検視したら、疵所は百会
の後竪に六寸程切疵一ケ所・臍の上より背へ一寸程突疵一ケ所・
咽喉に弐寸程・左の腕に一寸程突疵ニケ所であつたといふ、辛う
じて裏口から抜出した良之進は正一郎の声を聞き、師匠の敵其儘
に置難しと思へど、遣言の旨も黙止し難く、一途に京都へ駈付け、
廿日陸奥之助の手許から詩集を受取り、翌廿一日彦根へ赴き、権
之進に面会して一部始終を物語り、碑文詩集を渡したといふ。
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その大意に、区々たる一包裏の汗血は数十年ならずして衰竭に就
く、今日忠孝の具たるを併せ得たる我は天下の幸甚人である。噫
慷慨難に赴くは易く、従容義に就くは難し。明智光秀の宇野某に
於ける、将門の六郎公連に於ける、身首を異にするも遂に能くそ
の心をにせしむる能はず、人世詩本粉本の称ありといふべしとあ
つた。良之進は吃驚して、尚よく事情を聞糺さうとする中に、矩
之允は便所へ立ち、塾外では大井正一郎と安田図書との話声が聞
える。先生の御申付により矩之允殺す、若し逃出すやうなことが
あつたら取押へてくれろとの正一郎の声だ。彼は慌てゝ便所へ赴
き、右の次第を告げると、承知して居る、最早立退く隙もないが、
正一郎を出抜き、今一度平八郎に面会したく、隠れて居る次第、
その方は見咎められざるやう立退けと言はれた。然し師匠の一大
事と良之進は猶予決しかねてゐると、矩之允の為を思はゞ早々立
退き、最前の文章を権之進に渡してくれよ。然らずば我が潔白の
心事も知れ難く、残念なりと再三の言葉に、彼は漸く気を取直し
て塾中に取つて還し、混雑に紛れて裏口から抜出した。正一郎は
図書と相談の上彼を塾外に見張番とし、自分は進んで便所口に待
つて居たが、一向矩之允が出て来る気合の無いので、刀片手に戸
を明けながら、先生のお差図と声をかけ、立上つて来る矩之允の
胸元を刺し、蹌踉く所を斬付け、乗掛つて止を刺し、短之允を討
留めたりと高声に呼はつた。乱後短之允の屍を検視したら、疵所
は百会の後竪に六寸程切疵一ケ所、臍の上より背へ一寸程突疵一
ケ所、咽喉に弐寸程、左の腕に一寸程突疵ニケ所であつたといふ。
辛うじて裏口から抜出した良之進は正一郎の声を聞き、師匠の敵
棄置き難しと思へど、遣言の旨も黙止し難く、前に一足、後に一
足、遂に思切つて一目算に京都へ駈付け、二十日陸奥之助の手許
から詩集を受取り、翌廿一日彦根へ赴き、権之進に面会して一部
始終を物語り、遺文及び詩集を渡したといふ。
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