Я[大塩の乱 資料館]Я
2006.10.23

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 』 その129

幸田成友著(1873〜1954)

東亜堂書房 1910

◇禁転載◇


 第三章 乱魁
  四 悲劇 (5)
 改 訂 版


批判   

平八郎は何故矩之允を殺したか、挙兵の当日矩之允一人を殺した とて逃したとて、計画の成就不成就に差響くことはあるまい、平 八郎も是位の事は能く知つて居らう、况んや矩之允は平八郎の愛 弟子で経学詩文に秀で、在塾中の会釈も外門人とは違ひ、殊に西 国遊学の餞別としては国光とかの拵付の刀を贈つたといふ位であ る、然らば平八郎が陰謀の成否に関係なき愛弟子の生命を絶つた は、時の勢に因つたものと解釈するより外は無い、眼前に存する 不同意者を見遁しては同意者の決心を鈍らしむる、縦令其不同意 者は我に害あらざるも利なき限は除かねバならぬ、河合郷左衛門 は正月に逃亡したが、其行先を尋ねて之を殺せといふ命令は無か つた、矩之允とても若し平八郎の眼前に居らなんだら、言換ふれ バ挙兵前に逃亡したら、此惨劇は起らずに済んだであらう、短之 允か平八郎の談論の尋常ならざるを訝り、「若不軽企之含有之候 故哉」と気付いたは十八日の深更といへば、此際逃出さうとすれ ば多分は逃得られたであらう、然れども矩之允には今一応平八郎 の存念を糺し、真に謀叛の企あらば飽迄も諌めやう、といふ親切 な考があり、且つ縦令謀叛の企があつても、斯様に急に起らうと ハ思はなんだ油断もあり、十九日朝正一郎図書の密話を聞くに至 つては最早万事休すと覚悟し、従容として死に就いたのであらう、 一方には幕府股肱の譜代大名井伊家の家臣として、又一方には厳 格なる中斎の愛弟子として、他に取るべき途を見出さなかつたの である、評定所の吟味書に、「短之允ハ力量勝れ、武術心掛も格 別加の旨申立候者も有之、前書良之進申口之趣にても、死を以国 恩に報し候心底と相聞、最期の事実無余義次第も可有之」と深く 同情を表して書いてあるには、何人と雖も賛成を表するに躊躇し まい。矩之允の遣難は廿九歳の時で、彼の詩稿は実弟岡本黄石之 を編輯し、浪迹小草と題して後年刊行に附した。

 平八郎は何故矩之允を殺したか。挙兵の当日矩之允一人を殺し たとて逃したとて、計画の成就不成就に差響くことはあるまい、 平八郎も是位の事は能く知つて居らう。况んや矩之允は平八郎の 愛弟子で経学詩文に秀で、在塾中の会釈も外門人とは違ひ、殊に 西国遊学の餞別としては国光とかの拵付の刀を贈つたといふ位で ある。然らば平八郎が陰謀の成否に関係なき愛弟子の生命を絶つ たは、時の勢に因つたものと解釈するより外は無い。眼前に存す る不同意者を見遁しては同意者の決心を鈍らしむる。縦令その不 同意者は我に害あらざるも利なき限は除かねばならぬ。河合郷左 衛門は正月に逃亡したが、その行先を尋ねて之を殺さうとはし無 かつた、矩之允とても若し平八郎の眼前に居らなんだら、言換ふ れば挙兵前に逃亡したら、この惨劇は起らずに済んだであらう。 去り乍ら短之允に逃亡の考は無かつた。郷左衛門や与五郎のやう に逃亡して一命を助からうといふやうな卑怯な考は無かつた。否 反対に恩師の無謀を諌止しよう。それが成らずば師を刺した上で、 自分も殉死しようといふ強い決心があつた。さうして十九日朝正 一郎図書の密話を聞くに至つては最早万事休すと覚悟し、従容と して死に就いたのであらう。一方には幕府股肱の譜代大名井伊家 の家臣として、他方には厳格な中斎の弟子として、他に取るべき 途を見出さなかつたのである。評定所の吟味書に、「短之允は力 量勝れ、武術心掛も格別の旨申立候者も有之。前書良之進申口の 趣にても、死を以国恩に報し候心底と相聞、最期の事実無余義次 第も可有之」と深く同情を表してゐるには、何人と雖も賛成する に躊躇しまい。矩之允の遣難は廿九歳の時で、彼の詩稿は実弟岡 本黄石之を編輯し、浪迹小草と題して後年刊行に附した。


田中従吾軒「大塩平八郎の話」「再び大塩平八郎に就て
『浪華姦賊罪案』その58


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