批判
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平八郎は何故矩之允を殺したか、挙兵の当日矩之允一人を殺した
とて逃したとて、計画の成就不成就に差響くことはあるまい、平
八郎も是位の事は能く知つて居らう、况んや矩之允は平八郎の愛
弟子で経学詩文に秀で、在塾中の会釈も外門人とは違ひ、殊に西
国遊学の餞別としては国光とかの拵付の刀を贈つたといふ位であ
る、然らば平八郎が陰謀の成否に関係なき愛弟子の生命を絶つた
は、時の勢に因つたものと解釈するより外は無い、眼前に存する
不同意者を見遁しては同意者の決心を鈍らしむる、縦令其不同意
者は我に害あらざるも利なき限は除かねバならぬ、河合郷左衛門
は正月に逃亡したが、其行先を尋ねて之を殺せといふ命令は無か
つた、矩之允とても若し平八郎の眼前に居らなんだら、言換ふれ
バ挙兵前に逃亡したら、此惨劇は起らずに済んだであらう、短之
允か平八郎の談論の尋常ならざるを訝り、「若不軽企之含有之候
故哉」と気付いたは十八日の深更といへば、此際逃出さうとすれ
ば多分は逃得られたであらう、然れども矩之允には今一応平八郎
の存念を糺し、真に謀叛の企あらば飽迄も諌めやう、といふ親切
な考があり、且つ縦令謀叛の企があつても、斯様に急に起らうと
ハ思はなんだ油断もあり、十九日朝正一郎図書の密話を聞くに至
つては最早万事休すと覚悟し、従容として死に就いたのであらう、
一方には幕府股肱の譜代大名井伊家の家臣として、又一方には厳
格なる中斎の愛弟子として、他に取るべき途を見出さなかつたの
である、評定所の吟味書に、「短之允ハ力量勝れ、武術心掛も格
別加の旨申立候者も有之、前書良之進申口之趣にても、死を以国
恩に報し候心底と相聞、最期の事実無余義次第も可有之」と深く
同情を表して書いてあるには、何人と雖も賛成を表するに躊躇し
まい。矩之允の遣難は廿九歳の時で、彼の詩稿は実弟岡本黄石之
を編輯し、浪迹小草と題して後年刊行に附した。
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平八郎は何故矩之允を殺したか。挙兵の当日矩之允一人を殺し
たとて逃したとて、計画の成就不成就に差響くことはあるまい、
平八郎も是位の事は能く知つて居らう。况んや矩之允は平八郎の
愛弟子で経学詩文に秀で、在塾中の会釈も外門人とは違ひ、殊に
西国遊学の餞別としては国光とかの拵付の刀を贈つたといふ位で
ある。然らば平八郎が陰謀の成否に関係なき愛弟子の生命を絶つ
たは、時の勢に因つたものと解釈するより外は無い。眼前に存す
る不同意者を見遁しては同意者の決心を鈍らしむる。縦令その不
同意者は我に害あらざるも利なき限は除かねばならぬ。河合郷左
衛門は正月に逃亡したが、その行先を尋ねて之を殺さうとはし無
かつた、矩之允とても若し平八郎の眼前に居らなんだら、言換ふ
れば挙兵前に逃亡したら、この惨劇は起らずに済んだであらう。
去り乍ら短之允に逃亡の考は無かつた。郷左衛門や与五郎のやう
に逃亡して一命を助からうといふやうな卑怯な考は無かつた。否
反対に恩師の無謀を諌止しよう。それが成らずば師を刺した上で、
自分も殉死しようといふ強い決心があつた。さうして十九日朝正
一郎図書の密話を聞くに至つては最早万事休すと覚悟し、従容と
して死に就いたのであらう。一方には幕府股肱の譜代大名井伊家
の家臣として、他方には厳格な中斎の弟子として、他に取るべき
途を見出さなかつたのである。評定所の吟味書に、「短之允は力
量勝れ、武術心掛も格別の旨申立候者も有之。前書良之進申口の
趣にても、死を以国恩に報し候心底と相聞、最期の事実無余義次
第も可有之」と深く同情を表してゐるには、何人と雖も賛成する
に躊躇しまい。矩之允の遣難は廿九歳の時で、彼の詩稿は実弟岡
本黄石之を編輯し、浪迹小草と題して後年刊行に附した。
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