実用的学
術を期す
幾甸に於
ける余姚
学風の樹
立
中井氏の
影響を受
く
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渠が王陽明の知行合一説に感服して措かず、竟に之を禁じて自家立脚の地と
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なすに至りたる者、又た怪むに足るものなきなり、渠れの強固なる意志は直
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覚的研究法に、尤も便なりしに相違なく、又た独断的演繹法に、尤も適せる
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ことも、其の人となりに於いて、当然の結果なるが如し、
然れども、其の何人の門に入りて、教を承け道を講じ、又た其の如何にして
姚江の学を祖述するに至りたるかは、今之を知るに由なし、江戸は今や方さ
に朱子学の中心点として、林信徴、尾藤良任、柴野邦彦等、覇府政治の名教
思想を維持しつゝあるなり、而して京坂の地方には、嘗て近江に中江藤樹あ
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り、備前に熊沢蕃山あり、余姚の学風は、夙に此の地方に樹立せられ、扶植
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せられしなり、関東の儒と、関西の儒と、業已に画然たる大庭逕を有せしな
り、関東に於ては、朱子学の一派、其の勢力を振ひつゝある外、但だ佐藤坦
の稍彩色を異にするを見るあるのみ、天下は滔々として、唯朱子学派の独り
擅にする所となり畢る、而かも関西に於ては、京師に皆川愿あり、大坂に中
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井竹山、中井履軒あり、共に醇乎たる朱子学派あらず、特に大坂の両中井に
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至つては、空理を軽じて実用を重むじ、自ら標幟して、我が学は朱子にあら
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ず陸子にあらず、李王にあらず、陽明にあらずと言ひ、蔚然として別に一家
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をなしたり、然らば則はち両中井の学風は、固より朱子学派に属すべきもの
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にあらざるべし、而して中井氏の懐徳書院が京坂地方道学の中心たりしの事
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実に賭るも、竹山、履軒の学風が、如何に関西に於ける人才の名教思想と問
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学方針とに、強大なる影響を及ぼせしかの、一 を味ふに於いて余あるべし、
而して竹山の歿せるは、文化元年、平八郎方さに十一歳の時にして、履軒の
逝けるは、文化十三年、平八郎方さに二十三歳の時に当る、然らば則はち、
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平八郎たとへ中井の門に入らずとするも、渠れが大に中井氏の学風に支配さ
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れたるものあること固より疑を容るゝの余地なし、而して平八郎は、齢未だ
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二十ならずして早く、吏務に鞅掌するに至りたりと云へば、其の実用を主と
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するの学風を励むで迎へたるべきこと、亦た明白なる事理に属す、平八郎は
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蓋し、彼の如き境遇と、此の如き影響とを受けて、竟に余姚の学説を祖述し、
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拡充するに至りたるならむか、
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幸田成友
『大塩平八郎』
その11
方(ま)さに
名教
儒教
幾甸
(きてん)
業已(すで)に
佐藤坦
佐藤一斎
稍(やや)
滔々
(とうとう)
擅
(ほしいまま)
畢(おわ)る
皆川愿
皆川淇園
醇乎
(じゅんこ)
まじりけが
なく純粋な
さま
標幟
(ひょうじ)
しるし
蔚然
(うつぜん)
物事の盛ん
なさま
鞅掌
(おうしょう)
忙しく立ち
働いて暇の
ないこと
励(はげ)む
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