孤身犖々
たる不運
児
数奇の歴
史逆境の
閲歴
狷介豪悍
の少年吏
務界に入
る
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要するに平八郎は、七歳以前に於いて、業已に早やく、人事の変に幾たびも
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遭遇したるものなり、未だ家庭の楽、膝下の歓をも解せずして、之を愛撫し
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之を鞠育する、慈母の温乎たる掌中より、引き離され、雲濤茫々たる茅海を
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阻たつる浪華の津に運ばれ、未だ七歳を超へずして早やく養父母の慈愛なる
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温暖なる手を奪はれ、孤身犖々たる不運児として他郷の天に保護するものも、
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依頼すべきものもなくして立ちしなり、
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悲惨なる歴史、不運なる経過は、平八郎孩提時代の閲歴なり、顧念ふに平八
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郎の英果毅烈の意気と、峻厳峭抜の志操とは、此の悲酸なる歴史と、不運な
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る経過とを有する、嬰児時代に於いて涵養され、鍜練されたるもの、其の多
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きに居るなるべし、平八郎は実に、襁褓と揺籃とを家とする外天地も知らす、
上下も知らず、東も知らず、西も知らず、父も知らず、母も知らざる、赤子
たり、嬰孩たる時代より、夙に逆境の数奇児たるの運命を天より養はるもの
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なるが如とし、果然として其の一生は数奇の歴史なり、逆境の閲歴なり、獅
子児を生む、乃はち之を千仭の崖に投す、踴躍し登り来つて一吼し、百獣を
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して脳破裂せしむるの気勢あるにあらすむは、育して其の児となさず、天奇
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傑を生む乃はち之を逆境の淵に堕とす、飛跳し振ひ起つて一睨し、万人をし
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て肝胆寒からしむるの気概あるにあらすむは、奇傑竟に奇傑たる所以を喪ふ、
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疾風に勁艸を知り、霜雪に梅花を知り、逆境に奇傑を知り、悲酸に異才を知
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る、平八郎は、此の数奇の歴史と、逆境の閲歴とを有する、嬰孩時代に於い
て、数奇にも屈せす、逆境にも撓ます、毅然として立ち、挺然として抜き、
以つて一つの意気軒昂なる、機鋒峭峻なる青年となれり、 々たる、 々た
る、狷介なる、豪悍なる一少年となれり、
而して此の幼年時代に於ては、北疆の辺警、端なく六十余州、桃源洞裏の残
夢を撹破し、打醍し、松平忠明、堀田正敦等の方さに定信の遺図を承紹して
一意辺警に狂奔し■走せるの秋なりき、此の 々樸々たる、狷介豪悍なる一
少年は、尚ほ想世界の人にて存するなり、未た実世界に進入するの時に達せ
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ざるなり、渠れは方さに素読と訓話とを習ふの時期に在り、而かも此の数奇
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の少年、逆境の青年たる平八郎は、父もなく母もなく心を安むし意を恣まゝ
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にして、久しく学習に従事するの余裕を有せさるなり、渠れは実務の実世界
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に早やく進入せざるを得ざるの境遇に在りしなり、
渠れば章を摘み句を尋ね、彫琢を是れ事とし、絢爛是れ尚ふが如き迂遠なる、
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優悠たる学習をなすの余裕なきなり、唯実用と実務とに於いて、適切明截な
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る哲理を購究し、直入直覚、直に之を活用し直に之を応用し得る底の問学を
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修めむことを期せるは、其の境遇上固より怪むに足らざる所たり、
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幸田成友
『大塩平八郎』
その11
業已
(すでに)
鞠育
(きくいく)
養い育てる
こと
阻(へだ)たつる
孩提
(がいてい)
おさなご
峭抜
(しょうばつ)
そびえたつ
鍜練
(たんれん)
堕(お)とす
撓(たわ)ます
方(ま)さに
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文字不明
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