矢部駿河
守大坂に
町奉行た
り
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然らば天保四年には、八月の大風雨の為め米価頓に大暴騰したれども、五六
両年には、稍下落して僅かに下民の意を安むずるものあらむとする途端、七
年十月よりまた/\暴騰して、金利も共に騰貴し、以つて八年の大恐慌に立
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ち至るものなるを見るべし、是れ実に当時中央市府たる江戸に於ける経済界
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動乱の概況なり、
然るに当時大坂は、経済上猶ほ全国の中心点とも曰ふべき地位に立てるが故
に此の地に奉行たるものは此の際大活躍大敏腕を有する人物ならざるべから
ざるは、固より言ふを俟たざるところたり、
天保二年辛卯、堺町奉行となれる矢部駿河守定謙は、今や入つて大坂町奉行
となれり、定謙雅量能く人を容れ、卓識克く幾微を察す、其の特に経理統御
の才幹あるに至りては当時夙に令名あり、其の入つて大坂に市尹たるや、務
めて下情を察し、民意を容れ、下問を耻ぢず、交游を拒まず、人に対する胸
に城郭を設けず、洒々、落々、士民大に望を属す、定謙は人を知り、世を察
するの明あるもの、一処士と雖ども、彼の一代の奇傑漢たる平八其の人が、
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其の眼中に入らざるの理、万々あるなかるべし、果然として定謙は平八の非
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常の人たるを夙に看破せり、故に政務に吏務に定謙は隠然平八を引いて、己
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の顧問たらしめ、諮詢密議、大小の機務、多くは之を平八に質せり、定謙は
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実に当代の一賢明良市尹なりしなり、特に其の財政を処理するに長じたるに
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至りては、優に大坂の当時輻湊せる、経済事務の管理者、処理者として企画
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し、設計し、裁断し、綢謬するに足るの手腕を有するを疑はず、
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平八は今や処士として定謙の知遇を受く、渠は毎に定謙の下問に接せり、知
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つて言はざるなく、慮つて告げざるなし、定謙またその傲岸悍鷙なるを厭は
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ず、其の倨慢尊大なるを辞せず、好く平八を容れ、平八に聴けり、平八は屡
々処士として定謙の門に出入し、或は仁義を談じ、或は国務を論じ、或は画
策に参与し、或は設計を翊翼し、意を傾け心を くし、遺を拾ひ欠を補し、
以て大に定謙知遇に報ひむとはせり、
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桜庭経緯
「矢部駿州と大塩
平八郎」
綢謬
(ちゅうびゅう)
まつわりつく
こと
悍鷙
(かんし)
強くてあらあ
らしい
翊翼
(よくよく)
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