跡部良弼
矢部駿河
に代はる
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この歳初秋、大坂町奉行たる矢部駿河守定謙は、未だ其の賑恤の策を幾甸の
間に行ふに及ばずして、早や台命を被むり、勘定奉行となりて、江戸表へ出
で、国家財政の局に当たり、目下危急の凶歉救拯の術を講することゝはなれ
り、之れに代はりて大坂に市尹たるものは跡部山城守良弼とぞ聞こえける、
さて良弼は将に出立して大坂に赴任せむとするなり、矢部定謙の英名其の夙
に耳にする所、此の頃大坂より来れる矢部駿河守、之れに後任の申置心得な
ど聞置くは肝要と、直ぐ様駿河守に過ぎりて、色々の心得を教へ玉はれと乞
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ひけれど、駿河守は別にさしたる心得もせず、たゞ大坂には与力の隠居に、
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平八郎と申すものゝば悍馬の如くに候へば、其の気を逆らひ激させ候はぬ様、
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御計らい申され候はば、詰度の御用には立ち候はむ、もし奉行の威勢もて之
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を駕御せんずる如きあらば、危きこと言はん方候はずと、いと簡易にして卑
近なる注意をば与へられけり、跡部はたゞ唯々として其の座を立ち去りたる
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後にて人に物語りけるは、駿河守は一世の人物とは聞き候へしに、今まのあ
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たり其の人に接し候に、聞けるに相違して、大任の心得振などをも語り候は
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ずで、たゞ区々たる一人の与力の隠居を、御するの御し得ぬのとの取るにも
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足らぬ心配、何事の語にや、頓と分かり候はずと嘲り合へりとぞ、
かくて跡部山城守良弼は、此の天下危急の秋に当りて、経済上枢要の府たる、
大坂に町奉行として、今や鋭を獅ワし治を図かる、而かも天下挙けての凶歉、
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特に幾甸の内には、餓 路に死するもの多く、京摂の間、民皆な流死し、饑
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を呼ふ声は、山村水郭、南の里にも、北の市にも、悲酸の叫は充ち満てり、
賑恤も救拯も、殆むと其の術なからむとはするなり、此の惨鼻の光景を目撃
する平八、豈に黙々として傍観するものならむや、夙に前奉行矢部駿河守と、
預しめ、賑 の策をは講し居たるなり、今や新奉行鋭意政を理すると聞く、
此の策須らく之を告くへきなりと、処士の身なから民を憂ふる義気の一片、
養子格之助か与力の身たるを幸、封事を認めて賑恤策をは呈したり、
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桜庭経緯
「矢部駿州と大塩
平八郎」
幾甸
(きでん)
王城付近の地
台命
(たいめい)
将軍や三公な
ど貴人の命令
救拯
(きゅうじょう)
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