王覇衝突
の観念
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此の危急の砌に臨み、傍観者さへ、かくまで肺肝を挫き候に、当局の奉行、
何とて速かに賑恤の策を決行せざる、けしからずと、独り怒鳴て、また/\
封事認め、奉行宛てゝ其の姑息を責め、緩慢を詰り、且つ京畿飢特に甚だし、
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九重の楓宸、今ま何の状たるを知らず、畏れ多きことゞもなり、世に民に代
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へ難き、此の一天万乗の 御一人を如何とかする、速かに稟米を開きて大に
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賑恤の策を帝畿に施こすべし、一刻も躊躇すべからずと論じたり、而かも返
答の内意もなく、採用の気色も見えざれば、養子格之助をして人を介して詰
らしめしに、但だ大坂の財政は、汝等が知らむところにあらず、関東の米穀
も、此の倉庫に待ち、又た此の地の富豪に俟つ、台命によらずむば、臨機の
処置、某等が独断に決行せらるべふも候はず、且つや明年新将軍家慶台職を
紹かせ玉はるとの内命ありたる今日、それに対する庶般費目の財源は、亦た
大坂に覓めらるべきは必定、之れが準備は、某が職として当然今になさゞる
べからざる次第、政道の機密は、下賤の者共が窺ひ知るべき儀にもあらずと
の、澄まし切つたる返答、一応道理もあり、又た当時の時務をば洞観したる
の言葉なれども、業已に封事を採用せず、又た平八を蔑視し、芥視するの語
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気挙止なるからに、伝へ聴きたる疳癪強き平八、眦裂けて眼電の如とし、然
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らば奉行は将軍を以つて 上御一人より重きとなすもの、関東を京師より大
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切となすもの、大義名分を顛倒するものにこそ候へ、黙して置くべき儀には
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あらず、奉行が賑恤せぬならば、某が窮民を引き受けて彼の富豪大賈共を説
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き勧め、立派に此の策実行し呉れむと、平八が脳中には早やく王覇衝突の観
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念湧沸せり、平八は一方には、 槐宸の危急を惟ひ奉り、一方には下民の困
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阨を思ひ遣り、一方には王なる観念を捧け、一方には民なる観念を捉へ、勤
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王的の気 と平民的の気 と併せて、之を一口に吐き去らむとはせり、王は
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社稷の淵源、邦土の主宰、民は天下の根本、邦家の基礎、而して此の王と此
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の民とがかくまで、困疲窮通せるに、当局は之れが賑恤をも、救済をも計ら
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ざるとは、奇恠千万、一奮励彼の鴻池、三井の輩を語らひて、此の義侠的事
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業を実行し、大義も弁せず、本末をも知らず、緩急の節を失ひ、前後の序を
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愆まる、彼の俗吏共、まのあたり其の魂つぶし呉れむと、一縷の希望を、平
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民の御方なる三井、鴻池等の富豪大賈に繋ぎて、猶ほ一大飛躍を試みむとは
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策せり、
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幸田成友
『大塩平八郎』
その102
楓宸
(ふうしん)
天子のいる宮殿
覓(もと)め
愆(あや)まる
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