Я[大塩の乱 資料館]Я
2016.4.5

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大塩平八郎』 その8

国府犀東(1873-1950)

(偉人史叢 8)裳華書房  1896

◇禁転載◇

獅嬰孩時と幼年時代(1)

管理人註



















刑余の人
記録に乏
し





















阿波美馬
郡に生る















乳児にし
て母を喪
ふ











他郷に送
られ他家
に育せら
る

  刑余の人記録に乏し○阿波美馬郡に生る○乳児にして母を喪ふ○他郷に   送られ他家に育せらる○孤身犖々たる不運児○数奇の歴史逆境の閲歴   ○狷介豪悍の少年吏務界に入る○実用的学術を期す○幾甸に於ける余姚   学風の樹立○中井氏の影響を受く○問学の修養学術の実行○嚢中の錐 寛政五年癸丑の歳は、松平定信か閣老の職を退き、高山正之か憤死し、林友 直か病歿せるの年にてありき、而して寛政六年甲寅の歳は、平八郎か甫めて 呱々の声を襁褓の裡に放ちたるの年なりき、 平八郎が出生の場所及月日に至つては、刑余の人、大逆を以て罸せられたる 人のことにしあれは、之けに関する記録も、書類も、七穿八鑿、終に之を得 る能はさりしより、殆むと途方に暮れたりし、頼にして親しく平八郎の姻戚 たる三宅玄達氏の書牘を得たれは、其の誕生の地のみは之を審にするを得た るも、其の月日は竟に之を知るに由なくして止めるは、独り遺憾に耐えざる 所なり、三宅氏の書牘に云はく、   阿波国美馬郡岩倉村字新町三宅(後改南乱変後と云)某平八郎幼少の時                                  ママ   喪母母の縁故により父同人を大坂某に托育(年齢年月不明)後為天満余   力大塩家養子(年齢等不明) と、然らば則はち、平八郎の生地は、阿波美馬郡なりしこと明白なり、聞く 岩倉村字新町は、もと村に非ずして、脇町の一部たりしに、現今の町村制区 画の為めに、岩倉村に編入されたるものなりと、然らは則はち平八郎の生地 は、当時脇町と称せる地なりしなり、其の父母及家庭に就ては(今之を知る に由なし)、唯三宅氏の書牘によれば其の幼にして母を喪ひ、母の縁故によ                         ・・・・・・・・・・ りて大坂の某氏に托育にせられたるを知るべきのみ、其の他人の家に托育さ ・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・ れたるを見るに於て、吾人は其の托育されたるは、其の乳児にして母を喪ひ ・・・・・・・・・・・・・・・・・ たるが故なるべしと想像するものなり、若し然りとせは、平八郎は母も知ら ず、父も知らずして早く他人の家に鞠育されたるものなり、而して渠れは未 だ東西の弁別をもなし得さる時代に、早やく生国を離され、遥々茅淳の海を                       ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○   ○ ○ ○ 隔てゝ、浪華の津に案び去られたるものなり、渠れは未だ家庭の楽、膝下の ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○   ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 歓をも知らずして他郷にあり、他家に育せられたるなり、後其の入て大塩氏 の養子となりたるも、三宅氏の書牘にて明なれども、其の何歳の時にてあり しやは審ならず、中尾捨吉氏が艸せる「大塩先生論伝」なるものを見るに 「先生七歳時、父母倶没。」とあり、然らば則はち、是れ養父母を喪ひたる ものなるべく、而して其の大塩氏の養子となりしは七歳以前にありしものな るべし、




幾甸
(きでん)

余姚
陽明学派の異
称。王陽明の
出身地、浙江
(せっこう)省
余姚を流れる
川の名による


甫(はじ)め

呱々(ここ)
生まれたばか
りの赤ん坊の
泣き声

幸田成友
『大塩平八郎』
 その8

三宅玄達
徳島の医師


(つまびらか)





























渠(か)れ


茅淳(ちぬ)の海
大阪湾の古称


『大塩平八郎』目次/その7/その9

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