刑余の人
記録に乏
し
阿波美馬
郡に生る
乳児にし
て母を喪
ふ
他郷に送
られ他家
に育せら
る
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刑余の人記録に乏し○阿波美馬郡に生る○乳児にして母を喪ふ○他郷に
送られ他家に育せらる○孤身犖々たる不運児○数奇の歴史逆境の閲歴
○狷介豪悍の少年吏務界に入る○実用的学術を期す○幾甸に於ける余姚
学風の樹立○中井氏の影響を受く○問学の修養学術の実行○嚢中の錐
寛政五年癸丑の歳は、松平定信か閣老の職を退き、高山正之か憤死し、林友
直か病歿せるの年にてありき、而して寛政六年甲寅の歳は、平八郎か甫めて
呱々の声を襁褓の裡に放ちたるの年なりき、
平八郎が出生の場所及月日に至つては、刑余の人、大逆を以て罸せられたる
人のことにしあれは、之けに関する記録も、書類も、七穿八鑿、終に之を得
る能はさりしより、殆むと途方に暮れたりし、頼にして親しく平八郎の姻戚
たる三宅玄達氏の書牘を得たれは、其の誕生の地のみは之を審にするを得た
るも、其の月日は竟に之を知るに由なくして止めるは、独り遺憾に耐えざる
所なり、三宅氏の書牘に云はく、
阿波国美馬郡岩倉村字新町三宅(後改南乱変後と云)某平八郎幼少の時
ママ
喪母母の縁故により父同人を大坂某に托育(年齢年月不明)後為天満余
力大塩家養子(年齢等不明)
と、然らば則はち、平八郎の生地は、阿波美馬郡なりしこと明白なり、聞く
岩倉村字新町は、もと村に非ずして、脇町の一部たりしに、現今の町村制区
画の為めに、岩倉村に編入されたるものなりと、然らは則はち平八郎の生地
は、当時脇町と称せる地なりしなり、其の父母及家庭に就ては(今之を知る
に由なし)、唯三宅氏の書牘によれば其の幼にして母を喪ひ、母の縁故によ
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りて大坂の某氏に托育にせられたるを知るべきのみ、其の他人の家に托育さ
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れたるを見るに於て、吾人は其の托育されたるは、其の乳児にして母を喪ひ
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たるが故なるべしと想像するものなり、若し然りとせは、平八郎は母も知ら
ず、父も知らずして早く他人の家に鞠育されたるものなり、而して渠れは未
だ東西の弁別をもなし得さる時代に、早やく生国を離され、遥々茅淳の海を
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隔てゝ、浪華の津に案び去られたるものなり、渠れは未だ家庭の楽、膝下の
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歓をも知らずして他郷にあり、他家に育せられたるなり、後其の入て大塩氏
の養子となりたるも、三宅氏の書牘にて明なれども、其の何歳の時にてあり
しやは審ならず、中尾捨吉氏が艸せる「大塩先生論伝」なるものを見るに
「先生七歳時、父母倶没。」とあり、然らば則はち、是れ養父母を喪ひたる
ものなるべく、而して其の大塩氏の養子となりしは七歳以前にありしものな
るべし、
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幾甸
(きでん)
余姚
陽明学派の異
称。王陽明の
出身地、浙江
(せっこう)省
余姚を流れる
川の名による
甫(はじ)め
呱々(ここ)
生まれたばか
りの赤ん坊の
泣き声
幸田成友
『大塩平八郎』
その8
三宅玄達
徳島の医師
審
(つまびらか)
渠(か)れ
茅淳(ちぬ)の海
大阪湾の古称
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