死後の刑
叛逆の罪
名
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奉行は平八父子の屍を挙けて、之を網輿に載せて、町奉行所に送くる。台庁
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は刑名を宣告して、叛逆罪を以つて之に擬し、
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上略、不恐公儀仕方、実に不届至極に付、多人数とも塩漬の死骸引廻の
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上、大坂に於て磔に行ふ者也
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との令状下たり来れり。然らば平八父子は其の死後に於いて、塩漬のまゝ康
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衢を引き廻はされ、十字架に挂つて藁街に叛逆罪を以つて処刑せられたるも
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のなり。而してその連累の者は悉く誅戮を受く、
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平八はその死後に於いて叛逆の罪名を以つて大辟の刑に処せらる。焚死の平
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八は大辟の平八となれり、平八地下此の罪に服するや否や、法理の原則とし
て刑は一身に止まり、罪は死と共に亡ふもの、然かも封建の世、法理未だ明
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ならずと雖とも、焚死せる平八を首服せしめん様もあらざるに、之に科する
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に叛逆の罪名を以てするは、豈に正鵠を得るものとせむや、果然として平八
の罪名は、当時台庁に於ける一大問題となれり、矢部駿河守定謙は、当時勘
定奉行として台庁に列席せり、其の際定謙は平八に関して尤も公平の論を持
せり、為めに寃を被むり、禍、立ところに来たる、正論 議は群矇の毎に怪
しみ憚かるところ、定謙の意見は竟に衆議の為めに遮られたり、此の際定謙
が庁庭に争いたる擬案一班を以つて、後之を藤田東湖に語りたるに聞け、定
謙の論、之を現今進歩せる法理の原則に照すも、条理炳然たるものあるを見
る、
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幸田成友
『大塩平八郎』
その164
康衢
市中の大通り
挂(かか)つて
大辟
重罰、死刑の意
炳然
(へいぜん)
明らか
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