Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.6.11訂正
2001.6.8

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大塩の乱関係論文集目次


「矢 部 定 謙」  その10

小山松吉 (1869−1948)

『名判官物語』 中央公論社 1941 より


禁転載

適宜改行しています。


 
 

  三、定謙と藤田東湖

 定謙は川路聖謨とも親しく交際してゐたから、その紹介により藤田彪即ち東湖とも交際を結ぶに至り、互に肝胆相照らすに至つた、かくの如く定謙は当時天下に名声を博してゐた人々と親交があつたのに依つて察するも尋常の俗吏でなかつたことは分る、依てその人となりを知るため東湖が始めて定謙を訪問した時の状況を述べよう。

 東湖が定謙を訪問したのは天保十二年九月二十八日であつた、東湖は公用があつて水戸を出発し江戸に来りたる時に訪問したのである。一方は水戸徳川家の側用人であり他方は幕府の町奉行で大官であるから東湖の方より二十七日書面を以て面会したき旨を申送りてその都合を聞いた。すると定謙より「明日は御役目も閑暇な時であるから御來駕を待ち入る」との返事があつた、そこで東湖は二十八日に馬に跨り午前十時頃に小石川の邸を出で、雨を冒して数寄屋橋脇の南町奉行所に行き裏門より通つた、主人と懇意なる者は裏門より出入するのである、内玄開に至りたるに取次の者が出たから氏名を通じたるに、玄関より案内され、八つ九つ許りの座敷を通りて行くと、定謙は出迎え「これへ通られよ」と先きに立ちて案内し、書院の傍を過ぎて奥座敷に入つた。「これはそれがしの居間で御座る、失敬ながら御寛話も申したきゆゑ此処へ御通し申した」と述べ、東湖の佩刀を近侍の者をして床の前の刀掛けにかけさせ丁寧なる接待である、

東湖は之を辞退して佩刀を取つて自分の座の後の方にまはし置いた。さて座席定まりて挨拶を終りたる後に、東湖は主人斉昭より命ぜられたる弘道館碑浮亀を贈呈する旨を述べた処、定謙は之を受けて「当春御内々にて水戸様より御歌を拝受し、身にあまる冥加の至りで御座る、猶また只今は結構なる物を頂き有難き仕合である」と恭しく礼を述べた。

     定謙が当春内々にて水戸様より御歌を拝受し云々と述べたのは、斉昭より歌を贈られたからである、斉昭は天保元年以来水戸藩の諸政を革新し、文武を奨励し天下の諸侯に先だちて軍備を充実し、領内助川に城を築き主として露国の侵寇に備へ、又弘道館を建て子弟の教育を振興した、これらは東湖の参画したものであつたから当時水戸藩の動静は天下の注目するところとなり、従つて東湖の声名は全国に喧伝せられたのであつた。そして東湖は定謙の堺及び大坂の町奉行時代の事績を聞き、その非凡の吏たることを知り斉昭に推奨してゐたのである、斉昭もまた定謙を賞揚してゐた。それであるから定謙が天保七年九月江戸に帰り勘定奉行に任ぜられた時は之を喜び、その出処進退に注意してゐたところ、天保九年西丸留守居といへる閑職に左遷せられたから、斉昭を始め東湖らは同情してゐた、然るに十一年四月小普請支配といへる要職に転じたので斉昭は喜びて東湖を呼び「今度駿河(定謙)は小普請に転役したれば、余は春の歌を駿河に遣さんと思ふ、其方よき様に取計へ」といひて左の歌をしたヽめたる短 冊を賜はつた。

          鶯の木づたふ声の春なるは
              また立ちかへる春のしるしか

     東湖は江戸の御同朋にて小方運阿弥といへる者に頼みて右の歌を定謙に届けた、その時東湖は書面に「矢部駿州の高名はかね\゛/君公にも御聞及ばせられたが、今度小普請支配に転役に相成りたるは十分とは思召されぬけれども少しく御安堵遊ばされた、この御歌は春の歌としてよませられたものなれば、御内輪より駿州に遣されたき思召であるからよきに取計ひありたし」との趣旨を認めて依頼した、

    運阿弥は取敢へず定謙の下谷の宅に行き、東湖の書面を示し斉昭の短冊を差出したるに、定謙は之を見て大いに喜び斉昭の厚意に感激し、運阿弥に宛て一書を認めて謝意を表した、その要旨は「此度の転役十分とは思召さずとの御意、また立ちかへるとの御歌の意、拙者身に取り何と御請け申上ぐべきか、心中御推察の上、宜しく御受け頼入る」といふのであつた、定謙の感激は推察すべしである。

    運阿弥は定謙の書面を東湖に示したるに、東湖は「矢部もさすがによく言廻した」と評した。右の次第で東湖と定謙とはまだ相見ぬ先より既に知己であつたのである。

 次に定謙は東湖に向ひ「足下の高名は川路左衛門竝に山口玄亭等より承り居れり、今日態々御来駕被下忝く存ずる次第で御座る、しかしそれがしは第一文盲又武芸にも熟練せず、されば折角の御訪問にても何の御利益もあるまじと存ずる」と謙遜して述べたが、その口気は人を圧倒する勢威があつて、多年奉行の職にあつた威厳のおのづから備はるものがある。
     東湖は定謙のこの言葉を聞いた時の感想を『見聞偶筆』に書いてゐる「その時余心に思ひけるは、矢部の不文不武言はずとも知れたる事なり、文事ならば林大学、武芸ならば柳生但馬などこそ訪ふべけれ、矢部を訪ふは元より其吏材を取るなればかゝる謂れなき言を発すべからず云々」とある、東湖の見識もたいしたものであつた。

 東湖は定謙の言葉をきいて「足下は堺奉行より当御役までの御来歴もあり、当今万事一新の時、何を以て国に報ずる御考なるや、そのあらましを承りたい」と単刀直入に要求し、定謙の謙遜的挨拶に対しては何の答もしなかつた、定謙は東湖の要求に応じ欣然として語り始めた、その要旨は八歳の時より父の駿河守に従ひて堺に至り十六歳まで彼の地にて生長し、後二十七年を経て定謙もまた堺の町奉行となりたることより説き始め、その間の職務上のこと裁判のことなどを話し、次に大阪に転じて後大塩平八郎のことなどを話し談論日暮に及んだ。

 東湖は定謙と会見し肝胆相照らすに至つたのである、故に定謙が桑名に於て絶食し憤死したことを聞き、その死を惜み左の悼詩を作つた。

       眉目秀明神彩全。  飛談雄弁孰争先
       雖非廊廟棟梁器。  豈譲都城方面権。

 東湖は定謙を以て大臣宰相の器ではないが、町奉行としては何人にも譲らざる人材であると激賞したのである。川路聖謨も定謙を評して、淮陰侯韓信の小なる者にあらずんば莱公冠準の流ならんといつた。(以上見聞偶筆)

     韓信は漢の高祖の臣で蕭何張良と共に三傑の一人であつて股くヾりで有名な人である、後淮陰に封ぜられたが讒に遭ひて殺された。冠準といふのは宋の真宗の時契丹の入寇するや、宰相として策を献じ、契丹を破り功を立てたるもこれ亦讒に遭ひ罷められた。
 大谷木賽同(醇堂)は定謙を評して「その人と為り長身癨猊、眼光烱々人を射る、その語るや音吐洪朗にして吻端時を以て鉤曲せり」といつてゐる、癇気の盛んなる人であつたやうである、しかし法廷では少しも癇癪を起したことはない、それは修養を積んだためであらう。(燈前一睡夢)*1
 


定謙の和歌

 定謙は北村季文の門人であつて和歌を能くし、又刀剣を愛しその鑑定眼もあつた、奉行としての述懐の歌に、

      たがへしと心のみこそいたまるれ
          罪をたゞすも神ならぬ身は

といふのがある。司法事務に当たる者の心得となるべき名吟である。家庭の生活は至つて質素であつて、家庭は内室がよく治め婢僕は喜んで忠実に仕へてゐた、邸宅を没収せられて伊勢国に出発する際、定謙は妻を戒めいたづらに泣き哀しみ恥をさらすが如きことなからしめ、又家扶に命じて居宅を清掃して、書院の床には平素愛する文天祥の石ずりの双幅をかけ花を挿して飾り、そして邸宅を受取の役人に引渡したから、世人は之を聞いて感嘆した。

 桑名に幽囚中の歌に左の如きものがある。

        うつすべき鏡なければ妻子のみか
            我影にさへ別れてしかな

 定謙は桑名に於て絶食して死を決した時、幕府の役人は医師をして診察せしめたるに、既に憔悴して骨ばかりである、その時定謙は医師に向ひ「拙者既に死を決したのであるから薬を用ゐる必要はない、只拙者は三月二十一日に罪を蒙りたれば必ずこの日を以て拙者を陥れたる者に報復したいと思うてゐる、貴君は之を記憶せられよ」といつて天保十四年五月二十二日 *2 死去した。三月二十一日は桑名に幽囚の命を受けた日であるが、弘化元年の二月二十二日より三月にかけて水野鳥居等の処分が始まつたのであるから、的中はしないが大体に於て当つてゐるといへよう、

 
定謙の赦免
幕府は定謙の死後に至りその罪を宥赦しその子鶴松を召し出し家名を相続せしめた。(続名将言行録)

 
 


管理人註
*1 「燈前一睡夢」は所在不明。『随筆百花苑 第6巻』(中央公論社 1983 p432 安藤菊二氏解題)、『江戸のヨブ』(野口武彦著 中央公論新社 1999 p432)。
*2 川崎紫山『幕末三俊』の墓碑の紹介では、「天保十三年七月廿四日」に死去。


石崎東国「大塩平八郎伝」その86
向江強「大塩「建議書」幕政の腐敗醜状を告発」


「矢部定謙」目次その9

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