Я[大塩の乱 資料館]Я
2012.5.5

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「大塩の乱関係論文集」目次


「廖柴舟と大塩後素」
その8
町田柳塘(町田源太郎)

『上杉謙信』得能文著 (偉人史叢 第19巻) 裳華書房 1898 所収

◇禁転載◇

 管理人註
   

性を論ずる條に於て、柴舟は曰く、  善悪未分、是性、善悪既分、是情、性情二字、原明画如此、何須  更尋別解、孟子独関衆説而以善解之、豈知己落情字一辺、  荀子曰、性悪、豈自荀子始哉、孟子一偏之説、留之也、  善悪、畢竟是情、不是性、 大塩亦曰く  筍子性悪之説、当之于情、則不易之論、而当之于性則不也、  心体虚霊而已矣、悪固無、雖善不、 性の本体善無く、悪無し、発動して情となるに及んで、善悪分る、是れ 柴舟の説く所、実に確論なり、孟子、性を認めて情となし、性善の説あ り、是に於て荀子性悪の説を以て相反す、陰あれば陽あり、善あれば悪 ある、即ち天地自然の理にして、孟子性善と云へば、荀子の言を待たず して、既に性悪の説、一方にあり、故に性悪の説は、荀子始めて之を唱 ふるにあらず、孟子の一言裡面より窺へは、既に性悪の意を含めり、柴 舟の慧眼能く之を看破して、千古の迷夢を撹醒す、亦快と云ふべし、而 して大塩特に荀子を責めて、孟子を責めず、是れ何の意ぞ、蓋し惺窩、 羅山以来、我邦の儒者孔孟の説に心酔して、之を崇ぶこと支那人の上に 出で、語孟の二書は決して半点の疵瑕無きものと思量し、盲信の極、疑 ふべきものも疑はざるを以て、大塩、亦荀子の性悪、情に当れば不易の 論と云ひなから、孟子の性善の謬れるを知らざるなり、故に曰はく、  水性本寒矣、火在其下則沸々然、化為湯了、当其時、水雖有、  寒絶無也、人性本善矣、物誘其外々然、化為悪了、当其時  人雖善、或無也、然去其火則寒復依然、拒其物則善亦現在、  云々、 是全く大虚の説と心体は霊のみ、悪固より無し、善と雖も有るべから ずとの説に矛盾す、心体は霊にして性は善なりとの語、実に解すべか らず、吁、大塩の卓眼も、未だ流俗の幣実を脱する能はずして、此の誤 謬に陥る乎、然れとも其悟らざる唯一髪の間のみ、若し彼をして廖集を 読ましめば、豁然頓悟して荀孟の説、共に一方に偏するを知るに至りし ならん、

















『洗心洞箚記』
その198










藤原惺窩
林羅山







語孟の二書
四書のうちの
「論語」と「孟子」









『洗心洞箚記』
その122


「廖柴舟と大塩後素」目次/その7/その9
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