|
平八郎の説話中に東組同心吉見九郎右衛門(四十六歳)、庄司儀左
衛門(三十九歳)、渡辺良左衛門(四十七歳ほど)、河合郷左衛門
(三十八九歳)の四人、瀬田の後につゞいて入り来る。庄司は沈黙寡
言、渡辺は温厚実直の人、席もやゝ離れて坐す。河合は思慮燥急に
して、言行に不謹慎なるところあり。吉見は俊巡して決せざる態度
あり。
平八郎 それに、わしに云はせれば、この秋跡部の新任以来、東方にも少
し不慎みなところがあつた。例の一心寺の一件や、またその他にも
手落ちがないではない。壮年血気の跡部にして見れば、部下の者が
大塩の命令のみを聞いて、新奉行をないがしろにすると思つたかも
知れない。然しもう少し事情に通ずれば、大塩はどんな男か、今に
わかる時が来るだらう。思ふに今度の組替の風説は、跡部が少し、
策略を用ゐるのではないか。一同を反省させるために、わざとそん
な噂を立てたのではないかとも思ふ。先づ鳴りを鎮めて彼の挙動を
窺ふのだな。
河 合 (庄司の膝を突き)そら、先生は斯う云はれると思つた。
平八郎 (河合の軽燥を不快さうに見しが、目を転じて)皆は跡部を埒も
ない小人物のやうに云ふが、彼にも相応の着眼はあると思ふ。知つ
てる通り、わしは過日格之助をもつて、目前の饑饉救恤策を跡部ま
で申し送つた。それは従来、大坂の役所には凡そ六七万両の闕所銀
が納まつてゐる。何故この際その不浄金を発して窮民を賑はさない
と、彼に迫つて見た。その時跡部は答へて、三升五升の施米はたゞ
貧民一日の饑を凌ぐに過ぎない。現在の急務は運漕廻米の利便をつ
くして、米価根本の調節をはかるにある。一国の経済は、これを大
局に失はざるにありと云つた。好く言つたと思ふ。
河 合 (口をモガ/\させて)然し、先生はあの時――
平八郎 (目を瞑つて河合を避け、強ひて聾を沈めつゝ)なる程、おれは
その時怒つた。然し……人の目には、その時憤激したわしの姿のみ
は
が見えて、同時に深く衷心に愧ぢてゐるおれの蛮を見なかつたらう。
わしはその刹那、正直に愧ぢ得られたことを、今も身の幸ひと考へ
てゐる。おれは元来惻隠の心に溺れやすい。天地の蒼蒼、万物の無
限を問ひながら、とかく目前の小仁に惑はされる習気がある。これ
一個の慾情だ。然るに、跡部輩の一言にさへ端的に漸ぢることが出
くやみ
来たのは、霊性の未だわれを棄てざるものがあつたのだ。悔悟はそ
の
の眉を舒べるといふが、わしは跡部の一言に塊ぢ得たと考へるだけ
の
でも、自分のこゝろが暢びやかになつたやうに思ふ。今日格之助に
こ
第二の経済策を跡部へ進めさせたのは、些か這の自己心上の悦びを
彼に寄せたのだ。用と不用とは素より問ふところではない。
瀬 田 先生、その経済第二策といふを伺ふことが出来ませうか。
平八郎 さア、然し……(微笑しつゝ)恐らく諸公には、権奇の策を弄す
ると憎まれるだらう。
小 泉 けれども我々の心得にもなります。
平八郎 (姿勢を正して) いつも云ふ通り、今年の饑饉は容易なことで
はない三年前巳歳の不作などは比較にもならぬ。日本全国を通じて、
先づ天明年間以来の大凶荒なのだ。京都役所の調書には、当秋以来
の餓死人が三千、離散民が八千とあるが、わしはそれ以上に見てゐ
むなづもり みつき
る。大坂などもわしの胸算では、三月間の餓死人が四千、新乞食三
千、人別のがれの窮民が七千、先づその見当だらう。(言語次第に
すく
熱して、顔色却つて和らぐやうに見ゆ)この大艱難の時を済ふには、
到底常道常識の政治では駄目だ。已むなくんば只、逆に取つて順に
だん
守る――断だ、断の一字にある。それで、わしは二ツの仕法を案じ
出した。その第一は大坂三郷の富豪家に厳命を下して、この際半年
間、諸国大名への貸銀を停止させるのだ。第二には奉行の威光をも
つて、市中の米相場を暴騰させるのだ。当時淀屋橋が一石百六十目
ならば、然うだ、百八十目九十目にも相場を引き上げさせるのだ。
わしは先づこの二策以外に、時の災変を救ふ仕法はないと思ふ。(
微笑みつゝ)斯う云へぼ、諸公或はまた中斎の逆説逆論と思ふだら
そろばんだま
う。けれども、わしは慎密に十呂盤珠を弾きながら話してゐるのだ。
どうだ、諸公の意見を聞かう。
|
幸田成友
『大塩平八郎』
その104
幸田成友
『大塩平八郎』
その105
|