Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.5.22修正
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大塩の乱関係論文集目次


「檄 文 の 思 想 を 探 る

―天人相関説・革命論・箚記・建議書―」

その4

向江 強

大塩研究 第30号』1991.12 より転載


◇禁転載◇

    

(七)

 仲田正之氏の編校訂になる『大塩平八郎建議書』について一言しておきたい。同書は、青木美智男氏の「箱根山麓豆州塚原新田で発見された大塩平八郎関係書状類」(『日本福祉大学研究紀要』五九号・一九八四年二月)がその史料の尾の部分であったのを、頭部分を発見してその全体を明らかにした点で画期的な意義をもっている。大塩事件の研究者にとっては待ちのぞまれた史料の刊行であった。同書目次によると史料番号五四までが当該文書と思われるが、ここではその全体について論評するのは他日に期すとして、とりあえず、史料番号二一の「老中方宛建議書形態及び建議書二・十七」についてとりあげることとしたい。

 「建議書」は十項目からなり、日付は挙兵の前々日の二月十七日、宛先は、大久保加賀守、松平和泉守、水野越前守、松平伯耆守、太田備後守、脇坂中務太輔等の老中宛となっている。したがってこれは挙兵直前の大塩の手紙として、彼の思想を知るうえで極めて重要である。

 以下項目毎に内容を追ってみよう。

 第一項では、松平越中守定信から田沼主殿頭意次へ申し渡された書の通り、水野出羽守忠成が見習い、上様を惑し、賄賂が公行し、賢人が隠退したなどのことは世間のよく知る所であるが、老中方には同職にあっても何等の意見もなく、終に天下の官を引き出すこととなった(これも老中方の責任であるの意を含む)。大久保加賀守忠真(相模・小田原)は京都所司代の時(文化十二〔一八一五〕−文政一〔一八一八〕)に御法度の無尽を催し、去ル町人(不明)ヘ金作の大小迄遣わされた。松平和泉守乗寛(三河・西尾)と松平伯耆守宗発(丹後・宮津)は大坂で獄門に処せられた八尾屋新蔵と自殺した弓削新左衛門等に頼み、無縁の町人達に対して無尽を企てた。その上新蔵に対しては扶持方と紋付羽織などを与えた。水野越前守忠邦(遠江・浜松)も去年(天保七年)中に、一心寺事件 *15 の宰領で来坂した牧野権次郎及び兄の八田衛門大郎等に関係させて無尽の計画もあったが、新蔵の一件で中止となった。しかしその因縁で不埒者の風聞ある権次郎などに吟味中にもかかわらず羽織や品物等を与えるという程の身の修(おさま)り方で水野出羽守忠成が生前には、何の意見も加えられなかったのは道理であった。破損奉行 *16 一場藤兵衛外二名を吟味の上御仕置にされたが、何人もこれに屈伏などすることはない。この様な事態であるので、先頃から調査を行った無尽に対する取調帳・名前書共二冊、其の外の証文の写と書付などは返却するので御承知されたいとある。

 第二項では、大久保加賀守の分家大久保出雲守は、長年大坂城の定番役を勤めているが、一場藤兵衛と同様の罪科があり、別紙百拾両の証文も添えているので承知されたい、としている。

 第三項は、内藤隼人正は勘定奉行となったが、右の者は太田備後守資始(遠江・掛川)も知っている通り、弓削新左衛門に欺かれ色々落度がある上、八尾屋新蔵などにも目通りさせ、和歌の掛軸なども同人へ贈っている。これは吟味の時取上げておいたのでおめにかける。権現様の御遣状には、三奉行(寺社・勘定・町)には簾潔の人材をあてよとの趣旨あるにも相反し、殊に乱れて来た事であっても、五拾年来済まして来た事については、改めない旨を遺されているにもかかわらず、隼人正は別紙油一件を取調べ、老中方へ阿り、万民の為を思わず、当時の振合を改め、一升に付六百文程の油を貧民が購入せざるをえなくさせたのは、『大学』に謂う聚斂の臣 *17 というべきで、厳しい処分が必要と思われたのに、永年大切の政を執行させたのは如何であろうか。旗本八万人には人材はいないのであろうか、といっている。  第四項には、久世伊勢守は水野美濃守の親類ということで、青年の身分で大坂町奉行となったが、その家来が恨を含み捨訴した一件は落着した。しかし戸塚備前守は、 権家を恐れて尋常の吟味を行わず、金子敬之進は不埒の儀があるにもかかわらず、主人伊勢守共々無事に済んだ。その上伊勢守が長崎奉行となったのは、皆人心の伏せざることで、きたなしと歎かぬ者はないとある。

 第五項は、矢部駿河守は三百俵の小録で、五百石の高に成りたいと望み、大坂城代土井大炊頭の家来に縁類があり、その手続きで立入(御用商人)り同様にしていたのは町奉行の身分にあるまじきことである。大坂の町人升屋平右衛門は、身元宜く大炊頭へ銀主として口入れし、大炊頭主従を取込めていた。其用達を勤ていた町人河内屋作兵衛は、東奉行所で召仕っていた人足頭別家の手代であったところ、御城代の御用と称し、西役所の勝手ヘ参った節、諸大名の家来より取扱い宣しくすべき旨を発言(意味不明)したのは公儀の外聞にかかわる筋である。然るに京橋口 *18同心が盗賊と見違えて平人を疵付、又は大久保讃岐守組同心が盗賊え灸をすえたのを、事仰山に大炊頭へ申込み、或は吟味に処し、或は自殺に及んだ事は組頭より差出した書付の写しを御覧に入れる次第である、としている。*19

 第六項は、西奉行役所附の金子、合せて銀百弐拾四貫目余りを、大久保加賀守領分摂州住吉村等へ貸付けたが、その返納銀を東西の与力が取込んだのを糺さず、駿河守が参府の前日、これに携わった用達播磨屋九右衛門を牢中で密殺させた。其の心底は、己の組の悪事が露顕しない様、且つは加賀守への阿りと思われる。是等の事は、公正簾潔の事とは見えず、一同伏することができない、とある。

 第七項は、駿河守の組与力内山彦次郎は奸侫の者でありこれを取用いた。別紙による捨訴は番人弥助がなしたもので、早速彦次郎に捕えさせ吟味し是亦牢中で殺させた。身分のいやしい者同士ではあるが、訴えの相手となったものへ吟味させたのは無道の筋というべきである、としている。

 第八項は、別紙による駿河守永勤願の件は、惣年寄共が駿河守へ阿り、町年寄共へは課(あてこすり)したもので、惣代印形を以て願としているが、市中一同ののぞむところではない、といっている。

 第九項は、一昨々年の米価高値の節、内山彦次郎と申合せ、堂嶋米市場へ入込ませ、無遠慮の取計いをなしたため、終に諸大名より米の入荷が止まってしまった。これは第一の罪であり、今日に至ってもそれを恨らまないものはない、とある。

 第十項は、駿河守と対面した際、陣平 *20 を学んだと不図話したことがある。何さま、隠謀を以て同役を罪科に落し入れる巧み事をし国を乱す奸侫の者は、古より皆駿河守の類である。老中方がその心中の悪を見抜けないのは何とも嘆かわしい。之によって一応右の趣きを束ねて申し上げるので、早々に言上されたい、と結んでいる。

 以上、大塩建議の条々の釈文を綴って来たのであるが、第一項の内容に関しては多少立ち入ってみる必要がある。それは第一に、不正法度の無尽に関連した現職老中は未遂の水野忠邦をふくめ四名が関与していることである。証拠として付けられた「不正之無尽取調書」や「武家方宮方寺社無尽名前書」などからみても、退職した老中・若年寄・奏者番・大番頭・寺社奉行等幕府の要職の者が数多く関係している。仲田氏の整理によると、大名二十四名、旗本二十一名、その他の武士十七名計六十二名の武家と、七十七の寺社の名が上っている。賄賂政治はこのような不正無尽による資金調達を背景にして成立していた観があり、NHKの『歴史誕生2』が構造汚職と呼んだのもむべなるかなといえる。ところでNHKの同書の解説には松平乗寛が、不正無尽事件を起した八百屋新蔵の黒幕だとされていることである。新蔵が大坂の奉行所の役人(弓削新左衛門)と結んで不正を働いた事件と不正無尽事件がここでは混同されている。しかもこの事件に松平乗寛も関係していたが、なぜか罪を免れた。松平宗発も同罪と訴えられたとしている。さらに水野忠邦も大坂の大寺院(一心寺)と結んで、不正無尽に手を染めようとしていたとの指摘がある。いづれも史料の誤読である。

 八百屋新蔵と弓削新左衛門の事件と不正無尽事件は別件であり、一心寺事件も又、水野忠邦とは何の関係もない。

 八百屋新蔵と弓削新左衛門の事件は、大塩在職中の三大功績の一つに上げられているもので、大塩自身「辞職詩并序」に記し、頼山腸も「送大塩子起適尾張序」にこれを称(たた)え、斉藤拙堂も書を大塩に送ってこれを称賛した程の事件である。有名な事件にしては史料に乏しく具体的内容は明らかでないが、『浮世の有様』、島本仲道『青天露露史』幸田成友『大塩平八郎』などが巷説を記している。今それによって事件の概略を示すと次の様である。

 西町組与力弓削新左衛門は、町奉行内藤隼人正の寵を得て、四ケ所(天満・道頓堀・天王寺・鳶田)の長吏と 結托し、悪事を働いた。四ケ所のものが強盗に入って金品を強奪し、家族を殺害する等のことがあっても弓削新左衛門は彼等から金品の賄いを受けて見逃し、自らもこれに類する行為を行ったという。又金持の町人などに無心を申しかけ、ききいれなければ辛い目にあわせた。新町の茶屋八百新は己の娘を新左衛門の妾とし、宅内に日夜同悪を集めて密議を凝らし、その室は【王毒】瑁で格子が作られるなど豪奢を極めていた。

 文政十二年、大塩は東町奉行高井山城守の密命を受けて其の姦悪を摘発し、新左衛門を自殺に追い込んで其の党類数人を磔にし、与力・同心十数人を処分し、贓金三千両を没収して貧民にこれを施した。八百新もこの時獄門にかけられている。

 ここに謂う八百新とは、「建議書」にいう八百屋新蔵であることにほぼ間違いない。『浮世の有様』では八百屋新兵衛としている。

 史料(二五〜二九)では八百屋新蔵とも書かれ、宮津藩、相州荻野藩などへ金銀を貸付け、扶持米等を給された上、嶋之内・新町などの茶屋で藩の役人と会合していた(二八 宮津藩元締役久田与左衛門書状)ことなどが分かる。檄文における「其身は膏梁の味とて結構の物を食ひ、妻宅等へ入込、或いは揚屋茶屋へ大名の家来を誘引参り、高価の酒を湯水を呑も同様にいたし」というのを裏付けるもので大塩の周到さが伺われる。

 奸吏姦商の代表ともいうべき弓削新左衛門や八百屋新蔵と結托した上、不正無尽等によって莫大な金銀を懐にしている幕府の役人共を知った時、大塩の腸は煮えくり返ったに違いない。この第一項は、大塩の怒を真正面からぶっつけた断呼たるもので、忠邦に対し告発の手心が加えられているというようなものではない。

 矢部定謙に対する告発は六項目に及んでいて、内山彦次郎と共に徹底的に批判している。内容も極めて具体的で厖大な史料をそえてのものだけに強烈な迫真性がある。矢部定謙は天保四、五年の飢饉に際し大塩の意見をいれ、米価を調節し窮民の救済に当って功績をあげ、名吏と称された人物であるだけに、大塩の告発は仲田正之氏ならずとも意外である。

 仲田氏は「建議書」に対し、「救恤問題に一切ふれてないし、天保の飢饉とはまったく無関係の感がある。また、役人の告発も、すでに大坂を離れている者の過去の不正告発が中心となっている。したがって、蜂起の動機や理由をしめした文とはならず、逆に大塩と江戸との関係のみが、鮮明にみえてくるのである *21 という。また「大坂の腐敗を材料に、水野忠成一派一掃を狙う水野忠邦派と結びついていたのではないか。告発は忠邦を含んではいるものの、決定的なものではない。…………すなわち、大塩建議書は政治改革に直接およんではいないものの、派閥抗争の資料となった可能性を見出しえないか」*22 ともいって「町奉行所を中心とした大坂と周辺部の腐敗政治を、大塩は具体例をもってしめしている。その点だけについてみれば、檄文の主旨と一致しているが、御政道を根本から正すというような展開がみえてこないのである」*23 と結論している。矢部の告発についてもなぜ徹底批判したのかと疑問を提起している。

 仲田氏の、このような「建議書」に対する疑問と評価は、どのように理解すべきであろうか。大塩の思想を追究してきたわれわれにとって結論は明らかである。仲田氏は大塩の思想について全く無理解であって、誤った評価に落ち入っているといわざるをえない。われわれが既に見てきたように大塩は、「政の道は、実に其の害するを去るに尽く」といっており、「煦煦の小愛を施す」ごときことは「姑息因循」としてこれを否定してきたのである。したがって「建議書」に救恤策や政道を正す具体策は必要ではなく、只批判と告発のみが必要であった。この意味からすれば、挙兵こそが大塩にとって唯一の政道を正す具体策であった。「建議書」は、何等かの取引きの書でもなければ、派閥抗争の資料でもなく、まして何事かを期待するものなどでは決してなかった事を強調しておかなければならない。このような観点から見れば、『甲子夜話』中にみえる江川坦庵、斎藤弥九郎などの評言も大塩を知らざる者の言というべきであろう。


【註】
*15 一心寺事件とは天保七(一八三六)年、天王寺村相 坂一心寺の住職竜誉が、徳川家康の画像に天海僧正の讃ある掛物を葵の紋などを付けて偽造し、茶臼山にこれを祀る御宮を造営したいと願出て、露顕に及び死罪となった事件である。画像が一心寺の什物であるとの開限證状などが本寺の知恩院から出され、享保時の什物帳が加筆改ざんされたなどのこともあって知恩院の寮坊主岱真外数人が処罰された。大坂町奉行は大久保讃岐守で、家来の藤方宗之進は、願書に加筆した件で武家奉行御構、暇となった。讃岐守もこれが原因で革職となったとされている。
 またこの事件で東組の与力の殆んど全部が江戸の寺社奉行所へ召問され、大塩の伯父大西与五郎も召喚さ れたが、何事もなく帰坂している。大塩はこの事件に心を痛め、「小生一己之深慮を以文武共稽古相休居候(五月廿九日、芥川思軒への手紙)と謹慎を表明していた。事件の裁許書は『甲子夜話三篇5』に採録してある。裁許書の所在は島野三千穂氏の御教示によった。
*16 被損奉行とあるが、破損奉行の誤りである。
*17 褻斂の臣とあるが、聚斂の臣の誤りである。
*18 京揚口とあるが、京橋口の誤りである。
*19 天保七年五月廿九日の平松楽斎宛手紙にはこの事件についての大塩の感想がみえる(『大塩中斎書簡』平松楽斎文書13、津市教育委員会)。
*20 陣平を学んだとあるが、意味不明である。
*21 『大塩平八郎建議書』二七五−二七六頁。
*22 註*21 二七六頁。
*23 註*21「一七七頁。

       (一九九一・一○・六)


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檄文

大塩「建議書」幕政の腐敗醜状を告発」向江強


「檄文の思想を探る」その3

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