Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.5.22修正
2000.5.3

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大塩の乱関係論文集目次


「檄 文 の 思 想 を 探 る

―天人相関説・革命論・箚記・建議書―」

その3

向江 強

大塩研究 第30号』1991.12 より転載


◇禁転載◇

(四)

 日本における革命説について略述すると、まず、讖緯説による三革(革令・革運・革命)思想が五世紀頃日本に伝来している。三革思想による辛酉革命説は日本の歴史編年の基準として採用され『日本書記』に適用されている。八世紀の革命の思想のなかに天命思想が混在していることは早川庄八氏の研究 *9でも明らかである。氏の研究によれば、天武系の「天」は天命思想本来の天ではなく、「天武直系というわく組みのなかでの、ひいては皇孫思想というわく組みのなかでの天命思想」にすぎなかったとされている。したがってそれ以後の「天命思想に基づく革命や革令の観念あるいは災異思想は、以後中世にいたるまで、貴族社会に存続したかのようにみうけられる。しかしそれらは、改元や譲位の理由となったとしても、決して本来の天命思想にたちかえっての、皇統一種を否定する論理とはなりえなかった」 *10 ものとされている。

 しかし、南北朝期という変革の時代には、革命説は本来の意味合いをもって登場してくる。『太平記』巻二には長崎新左衛門尉が、当今(トウギン)御謀反の露顕に際し、二階堂道蘊と論争して「文武揆一也ト言へ共、用捨時異ルベシ。静ナル世ニハ文ヲ以テ弥治メ、乱タル時ニハ武ヲ以急ニ静ム。故(ユエニ)戦国ノ時ニハ孔孟不足用、太平ノ世ニハ干才(カンカ)似無用。事巳ニ急ニ当リタリ。武ヲ以テ治ムベキ也。異朝ニハ文王・武王、臣トシテ、無道ノ君ヲ討シ例アリ。吾朝ニハ義時・泰時、下トシテ不善ノ主ヲ流ス例アリ。世ミナ是ヲ以テ当レリトス。サレバ古典ニモ、「君視臣如上芥則臣視君如寇讎」ト云へり。事停滞シテ武家追罸ノ宜旨ヲ下サレナバ、後悔ストモ益有ベカラズ。只速ニ君ヲ遠国ニ遷シ進(マイラ)セ、大塔ノ宮ヲ硫黄ガ嶋へ流奉り、隠謀ノ逆臣、資朝・俊基ヲ誅セラルゝヨリ外ノ事有ベカラズ。武家ノ安泰万世ニ及ベシトコソ存候 *11へ」 と発言している。これは長崎新左衛門尉が執事長崎入道の子息として、鎌倉幕府の意見を代表しての発言であるとみられるが、「世ミナ是ヲ以テ當レリトス」とは、当時こうした革命説が武士階級一般に承認されていた考えであることが知られる。「古典」とは当然『孟子』離婁篇をさしており、「孔孟不足用」との言葉が予盾なく便用されているのも面白い。

 近世に至っては林羅山は、革命説を支持していた。「湯武之挙不私天下唯在救民耳」「唯天下人心帰而為君不帰而為一夫」(『羅山先生文集』対幕府問)といって湯武の革命を肯定し、豊臣政権で打倒した徳川幕府を正当化した。

 この外、革命論を是とする儒家には、佐藤直方、室鳩巣、三宅尚斎,山県大弐等をあげることができる。室鳩巣の場合「主君もと不貴、民位に依て貴なり」「国家は天の授るにもあらず、又君の与ふるにもあらず、まして我取るにも非ず、只民のひゐてあたへたるなり」「天下といひ、国家といひ、征伐して得たるも、封ぜられて得たるも、皆一様に我有にはあらず悉く、其の民の有也」(不亡鈔)と言って、徒来の革命説を民衆本位的にー歩進め、君は民との契約によって政治が行われるという一種の契約説が展開されている。

 山県大弐は、『柳子新論』を書いて幕藩体制変革の思想を展開した。『柳子新論』は幕府の忌諱に触れ、山県大弐は謀反の罰で処刑された。『柳子新論』は「天下国家を治むる者は、先づその大なる者を治め、而して小者これに従ふ。故に大利は興さざるべからざるなり。大害は除かざるべからざるなり、何をか大利といひ、何をか大害といふ。君仁に臣賢に、而して善人政をなすは、天下の大利なり、君暴に臣愚に、面して小人事を用ふるは、天下の大害なり」(大體第四)といっている。さらに「荀も害を天下になす者は、国君といへども必ずこれを罰し、克たざれは則ち兵を挙げてこれを討つ」「たとひその群下にあるも、善くこれを用ひて以てその害を除き、而して志その利を興すにあれば、則ち放伐もまた且つ以て仁となすべし。他なし、民と志を同じうすればなり」(利害第十二)として放伐を積極的に肯定し、かえって之を仁となした。群下とは、農民身分を指し、後の農兵論に影響を与えたといわれている。*12  大塩が『柳子新論』を読んでいたかどうかは確定しがたいが、大塩と同時代人で蒲生君平、伴信友、広瀬淡窓、藤田東湖などは筆写本のメモを残していたと云われてお り、大塩が与力としての職務柄これを読んでいた可能性は否定できない。


【註】
*9 早川庄八「律令国家・王朝国家における天皇」(『日本の社会史3』岩波書店)
*10 註*9 六九頁。
*11 『太平記一」日本古典文学大系、岩波書店、七一〜七二頁。
*12 市井三郎『近世革新思想の系譜』一一三頁。

     

(五)

 檄文では、「詰ル処は湯、武、漢高祖、明太祖民を吊、君を誅し、天討を執行候誠心而己にて」「奉天命致天討候」という放伐による天討が直接の目標とされている。誅伐の対象とされているのは、将軍や江戸の老中たちではなく、大坂の町奉行と配下の諸役人及びこれと結託している大坂市中金持の町人である。ここに大塩革命説の特異性を見ることができる。革命説は本来、天子の不徳がすすめば天は命を革め、王朝の交替を他姓の者によって実現するところにあった。大塩の場合、徳川政権打倒のよびかけはなく、勿論新政権下における具体的な救恤策などはみることができない。檄文において見られる決起後の政治構想と施策は次の様なものである。

 ここには大塩が、農民や都市民を当面する饑饉から救うという救恤策と共に、年貢諸役の軽滅、土地台帳の破棄など農民の要求にも応えようとした点がみられる。決起軍の旗の中に「救民」と大書したものが見られたのは右のことを象徴的に示しているといえるであろう。しかし大塩にとって最も重要なことは、奸吏好商に天誅を加え、その「害」をのぞくことにあった。「鳴呼、政の道は、実に其の害する者を去るに尽く。故に鄭声を放ち伝人を遠ざくるは、亦た只だ人心を害する者を去るのみ。漢唐の中主に至っては、茫乎として斯の義に暗し。姑息困循、(くく)の小愛 *13を施して、以て民に沢(めぐ)み物を潤ほすと為す。嗟乎、此れ漢唐の人為の三五の天徳に及ばざる所以なるかな」(『洗心洞箚記』上一六○)と述べていた大塩は、檄文においてもその立場を貫いたのである。金米の分散配当の如きは単に挙兵の結果、派生的に生じたものにすぎなかった。「建議書」を評して「聊も時政を輔け益すべきことはかつてなかりし *14」といって大塩を児戯にも類する狂謾の乱心者ときめつけている者があるが、これは全く大塩の革命論のよって来たるところを知らず、皮相の論断にすぎない。


【註】
*13 は煦が本来であるが、あたためうるほすの義がある。煦煦は小さい恵のさまを言う。韓愈、「原道」に「彼以煦煦為仁、孑孑為義、其小之也則宣」とある。
*14 『甲子夜話三篇4』東洋文庫、五七頁下。

    

(六)

 『洗心洞箚記』には、挙兵に至る大塩の思考の軌跡が明瞭に示されている。いまここで『洗心洞箚記』の全体について論述している暇はないので、大塩が自らの挙兵をどう正当化し得たかという視点からのみ考察してみたい。

 「箚記自述」によると、大塩の学説は一に太虚、 二に致良知、三に気質の変化、四に死生を一にす、五に虚偽を去る、の五点に要約することができる。太虚とは、北宋の張横渠の『正蒙』より出た概念で大塩の思想の核心となったものである。「躯殻の外の虚は、便ち是れ天なり。天とは吾が心なり」(上二)といい、「身外の虚とは、則ち吾が心の本体なり」(上五)といって、天、宇宙の本体は太虚であり、且つわが心の本体であるとした。しかして大塩にとっては心太虚に帰すことをもって本願をなした。太虚は仁を生じ、虚は則ち仁の源であった。又、太虚の息吹を気とし、虚と気とは不二の関係にあるとみた。気の運動は万物を生成するものであるが、虚なくして気なく、気を切りはなして虚もないとした。張横渠の気一元論が、大塩の陽明学の基底におかれているのは、意外の感もあるが体用理気の理論も張載の説より出ており、大塩陽明学の一特色とすべきであろう。大塩においては、良知もまた太虚に通ずるのであって、致良知とは帰太虚そのものでもあった。太虚は仁であり、良知であるが故に、「心太虚に帰すれば、則ち非常の事も皆亦た道」(上一一六)であった。

 大塩に於ける仁は、「天地万物を以て一体と為す」(下八一)の仁であるが、「視民如傷」(上一二四)の仁心であり、他者の痛みを我が痛みとする仁でもあった。「人の如きは、賤しと雖も道の存する所なり。焉ぞ之を藐(かろ)んずるを得んや」(上九五)という様な人間観と共に、大塩の仁の内容が注自されるところである。「致良知」「知行合一」の内容がこのような仁であるとすれば、目前の人民は困窮の極に達し、奸吏奸商は許し難いまでに跳梁跋扈していた現実の状況は、大塩にとつて断固たる非常の措置をとらざるをえないと判断せしめた。

 「其の義に当りてや、其の身の禍福生死を顧みずして果敢に之を行ひ、其の道に当りてや、其の事の成敗利鈍を問はずして、公正に之を履む」(下八三)ことが重要であった。『大学』における「心正而后身修。身修而后家斉。家斉面后国治。国治而后天下平」は、為政者たる者何よりも心を正しくして身を修めるを基本とするものであった。かかる観点からすれば、賄賂の公行、法度の無尽、不正と陰謀、聚斂の臣の横行などは大塩にとって許しがたく、「政の道は、実に其の害する者を去るに尽く」(上一六○)というにあった。しかも事に当っては、「孔子の温良恭倹譲の五字を以て、其の神を伝へ真を写すものと為す。故に発強剛毅を以て英雄の態と為し、而して聖人の事と為さざる者有り。是れ乃ち大いに天道に悖り而して甚だ中庸に叛くなり」「聖人の神化万変は太虚と斉(ひと)し。豈に春温のみ有りて秋殺無からんや」(上一七五)というにあった。

 しかも、「況んや吾が輩の聖人を学び、一に良知に任じて以て是非を公にすること狂者の如くなるをや。則ち其の人禍(じんか)は殆ど測るべからざるもの有らん。然りと雖も徒に人禍を怖れ、終に是非の心を昧ますは、固より丈夫の恥づる所にして、何の面目ありてか聖人に地下に見(まみ)えんや。故に我も亦吾が志に徒はんのみ」(下二○)との決意があった。狂者とは志が高く小事を事とせぬ者であり、普通人がやらないことをも、積極的に果敢に行動する人物でもある。「無拠天下のためと存、血族の禍をおかし」た大塩の決意はここに淵源するといわなければならない。

 大塩の挙兵は大塩のはげしい気性から、一時の憤激にかられて行ったとする見方も後を絶たない。大塩は、直情径行をいましめ、良知は性であって情ではないとしていた(上一三三)。また「故に誠に考悌忠義を倉卒顛沛(てんぱい)(とっさの危急存亡の場合)の間に尽くさんと欲する者は、居常に戒愼(かいしんきょうく)恐懼し、而して理と気を合一することを為さざるべからざるなり。理と気と合一することを為さずして、適たま一時一事に発すれば、則ち身を殺すと雖も君父同家に益なし」(上一七八)とも述べていたのであって、挙兵が「一時の慵慨の意気に発せるのみ」(上一七八)というものではなかったことをしるべきであろう。


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檄文
「檄文の思想を探る」その2その4

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