Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.10.15

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大塩の乱関係論文集目次


「― 歴史における個人 ― 
    大 塩 は 通 史 で ど う 描 か れ た か 〔三〕
その2

向江 強

大塩研究 第42号』2000.11より転載


◇禁転載◇

(二)

 一九七0年に刊行された歴史学研究会/日本史研究会編『講座日本史』4「幕藩制社会」(東京大学出版会)には宮城公子氏の「変革期の思想」が変革主体をさぐるという視点から大塩の思想を分析している。宮城氏はまず檄文の「天命を奉じ、天誅を致す」から、大塩の天誅の目標は現実の封建支配者と大阪市中の特権大商人であったとする。そして大塩のかかげる理想は「堯舜天照皇大神の時代に復し難く共、中興の気象に恢復し」「東照神君の仁政」へ立ち帰ろうという、真正の封建社会建設にあったとする。また大塩の乱は単なる衝動的な蜂起ではなく、世界観的な基礎づけをもった真摯な思索の結果としての実践であったので、思想史上固有の意味をもち、また変革主体を探るという点からみても見逃せないと、問題を提起している。

 宮城氏によれば、陽明学者大塩の思想の核心は、「良知を致す」の一言に尽きるといい、「良知」とは対象的存在の秩序原理であったと位置づける。ここには人間の心がすべての対象的世界つまり、自然・政治・経済・道徳に優越しており、その秩序原理をなすという主観的観念論があり、かつ「心即理」といわれるように、心の動きはそのままで客観的道徳に叶っている、という倫理主体であるともされている。

 そして「良知」は、認識とその実践を時間的・空間的に一致させようという、「知行合一」によって生かされる。また「良知 」という内なる人間の究極的価値を尊重すれば、考悌忠信という儒教の徳目、つまり身分制道徳を無視する可能性があったとする。大塩はこの「良知」と身分制道徳を二つながら満足させようとし、「良知」を原理とした本来の封建制というのが彼の理想であったとする。

 この主張は封建制というかぎり、なんら革新的ではないが、「良知」を原理とする封建制というイメージを掲げることにより、大塩は現実の幕藩制社会を批判する立脚点を得、且つこの批判は実践に移さるべきものであったという。

 大塩のこの批判は、歴史的には幕藩体制後期・封建的危機に対処する支配者に向けられ、発展してきた商品経済への依存、つまり株仲間や特権大商人との結託による封建道徳の変容に対するものとならざるを得なかったとされる。ここから生まれてくる功利主義者こそ、大塩が「姦吏姦商」として蛇蝎視し、糾弾してやまなかった者であったとされる。

 そして注意さるべきは大塩の「良知」を原理とする封建制という考えは、もし「良知」が実現されていなければ、その封建制は打倒さるべきであるという論が導かれる。そして大塩は湯武放伐肯定論者であったとし、仁義をそこなう支配者は仁義の名において打倒されなければならなかったのである。

 宮城氏はいう。「大塩の現実の支配者の道徳的、あるいは人格的責任の追及という批判の論理とその変革性こそ、人間の心はすべての対象的世界に優越し、それを支配するものとする良知の哲学の所産である。ここに人間の心以外の現実的社会をトータルに拒否して生きた主観的唯心論のもつ偉大な意味がある」と。そして大塩が「真正の封建制の建設のために一般民衆に呼びかけざるをえなかったことは、彼の思想の破綻」だとしながらも、「大塩にとって絶望の末のやむをえぬ非常手段であれ、一般民衆に呼びかけたことは、歴史的・客観的には民衆という新たな変革主体の登場を意味している」と結論している。

 宮城氏のこの論文は、大塩決起の要因として彼の思想の根本にまでさかのぼって分析し、民衆という新たな変革主体の展望にまで及んでいる点で、まさに画期的なものである。 宮城氏の思考は、のちに朝日評伝選『大塩平八郎』(一九七七)となって結実していく。



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「大塩は通史でどう描かれたか」
目次/〔三〕その1/〔三〕その3

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