Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.10.8

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大塩の乱関係論文集目次


「― 歴史における個人 ― 
大 塩 は 通 史 で ど う 描 か れ た か 〔三〕」
その1

向江 強

大塩研究 第42号』2000.11より転載


◇禁転載◇

(一)

 中央公論社の『日本の歴史』18「幕藩制の苦悶」が一九六六年に出版された。著者は北島正元氏である。この巻では天明から天保までの時代が叙述されていて、大塩のことは「天保改革の前夜」という章で、〈大塩平八郎の人と学問〉〈大塩の乱〉として取り上げられている。

 著者は大塩が「ついに武力蜂起に踏みきったのは、その信奉する学問と実践とをどのように正しく統一するかという課題を解決しえたからであった」とし、大塩の『洗心洞箚記』から「知行合一」、「心太虚に帰すれば、非常の事皆また道」 の考えを引用する。そして親交のあった農学者大蔵永常との思想的一致にまで論及していた点が注目される。著者は、永常の技術指導の立場は、「国益」の増進が目的であり、その前提として「先下民を安富せしむる事」(『広益国産考』)が必要であり、そのためには 下民を収奪する専売制を廃止して、民富形成の仁政をしくべきというものであったとする。そのうえで、陽明学者大塩の主観的観念論と永常の経験科学とは基本的に相容れないものであったにもかかわらず、両者は民富=国益観においては完全に一致していたと述べている。著者のこの点での論述は、阿部真琴「大蔵永常・大塩中斎 ─ 民富観について」 (『ヒストリア』3号)に依っていることは明らかである。著者はさらに、大塩の「太虚思想」を民富実現の原理としてとらえるとともに、ヨーロッパの禁欲的プロテスタンティズムとも対比される点、及び大塩の思想の社会的基盤を、菜種などを中心とする高度の商品生産物地帯である大阪周辺の富農層におく見解もあるとして紹介しているあたり、今日、今一度取り上げられなければならない論点であろう。

 大塩の乱についての記述では、大塩が「平素抑圧された部落民を人間として扱ってやれば、感激して身命を賭してはたらくので有力な味方になる」と語っていたとする『咬菜秘記』を紹介したり、この騒動で家を焼かれて困窮した大阪市中の貧民たちが、大塩を怨むどころか、「大塩様、大塩様」とあがめ、大工や日雇いなども、焼け跡の復興などで仕事に恵まれ、「大塩様のお陰」といつて喜ぶものが多かったこと、さらには近在の農民達が、檄文をひそかに転写して手習いの手本にしていたことなどにも触れている。

 〈幕府の反応〉の節では、徳川斉昭の『戊戌封事』が「内憂外患」のうち内憂の最大のものとして、「近年参州・甲州の百姓一揆徒党を結び、又は大坂の奸賊容易ならざる企仕り、猶当年も佐渡の一揆御座候は、畢竟下々にて上を怨み候て上を恐れざるより起申候」と強調していたことをあげ、反乱の小規模に対し、乱の客観的意義の大きさを指摘していた。

 文英堂から一九六九年に刊行された『国民の歴史』17「大御所時代」は、〈大塩平八郎の乱〉という章をもうけている。著者は奈良本辰也氏で、多くの写真版が挿入され、カラーもつかわれて、通史も華やかな装いをもつようになった。著者は先ず乱の社会的背景の叙述に力を注ぐ。天保の大飢饉、激化する一揆、奸商横行などの節で詳述されているが、特に目立った記述となっているのは、矢部駿河守定謙のことである。矢部は天保四年(一八三三)に大坂町奉行に就任した。著者は、矢部が「市民の立場をよく理解した名奉行として多くの人々の支持を集めていた」 と評価している。 著者の矢部評価の因となつているのは、川崎紫山の『幕末三俊伝』に依っているようである。天保四年の飢饉に際しては、米価の調節に苦心をはらい、多くの窮民を救済したこと、天保七年に奸商を懲らしめたエピソードなどが記されている。また矢部は大塩の良き理解者であり、彼への信頼を厚くしていたとし、大塩在職中も、引退ののちも絶えず親しく交際し、施政の上での相談もよく行っていたとある。

 著者は大塩の天性の気性として、「短慮過激」をあげ、江戸遊学説についても、疑問ありとしながらも石崎東国の『中斎大塩先生年譜』の挿話を引くが軽率の感を免れない。

 ついで著者は米価騰貴と跡部の施政について述べ、檄文四方に飛ぶ状況と義軍進撃の有様を記し、大塩軍敗走をもって終わる。新しい史実も新しい観点もみられないが、矢部の評価については、「大塩建議書」の知られる前でもあり、やむを得ないとしても、一考を要する問題である。



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坂本鉉之助「咬菜秘記」その3
川崎紫山『幕末三俊』「矢部駿州


「大塩は通史でどう描かれたか」
目次/〔二〕/〔三〕その2

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