Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.10.22

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大塩の乱関係論文集目次


「― 歴史における個人 ― 
    大 塩 は 通 史 で ど う 描 か れ た か 〔三〕
その3

向江 強

大塩研究 第42号』2000.11より転載


◇禁転載◇

(三)

 『体系・日本歴史』4「幕藩体制」が、一九七一年日本評論社から出版された。 大塩の乱は「第九章天保改革」で取り上げられ、執筆者は佐々木潤之介氏である。著者は、天保改革前段階の社会的問題を象徴する事件として大塩の乱と甲州郡内騒動の二つをあげている。

 大塩の乱については、「仁政による封建支配の再編をめざしたもの」で幕藩体制の否定をめざしたものではなかったという理解を示す。「しかし、このような主張も、大きな騒動として現れざるをえなかったところに、この時代の時代的特徴があった」という著者は、主体がわずか凡そ二十人に過ぎなかったとはいえ、この大塩の乱のもつ意味は多きかったとし、「それはなによりも、大坂周辺農村の貧農と、大坂下層町人と、部落民との、共同行動をもたらしたという点で、大きな歴史的意義をもっていた」と評価している。ただ大塩の部落民解放の考え方は、きわめて歪曲したかたちでしか見られないが、他方で、部落民のエネルギーに対するかなり高い評価を読みとることが出来るとしていた。そしてこのエネルギー評価と広い視野(大坂の他に、摂津・河内・和泉・播磨という広い地域の貧農たち)とが、貧農・下層町民と部落民との共同行動を、結果として可能にしたものだとしている。そして大塩の蜂起は、そもそもは郡内騒動に契機づけられ、つづく備後三原の一揆、生田万の乱、能勢一揆などに継承されていったとし、「それは、平八郎の蜂起後、早くも農民・町人の間で、平八郎の行動が大塩様・平八郎様として伝説化され、また、かの檄文が広く流布して人びとの心をうち、騒動の知らせが各地にたちまち伝わったという状況によっていたのであった」としている。

 以上の著者の評価については、今日の時点では、いささか疑問が残る。それは結果としてではあれ、貧農・下層町民・部落民の共同行動が可能となったといえるかどうかである。参加した農民層の詳細な階層分析や町民層の実態、さらには部落民の動向などをふまえた上での結論でなければ、説得力に欠けるといわなければならない。とくに乱後処罰されたもののなかに部落民がいたことは事実であるが、大塩が頼みにしていたという渡辺村の主力は参加していない。また守口町の白井孝右衛門、般若寺村の橋本忠兵衛などの豪農の果たした役割をどう見るかなどの問題もあり、実態分析は大塩研究での課題として残されたといえよう。

 三省堂から『日本民衆の歴史』全十一巻の内、5 「世直し」佐々木潤之介編が刊行されたのは、一九七四年である。「『救民』のたたかい」の執筆者は、青木美智男氏である。大塩の乱には一節全体があてられている。叙述は、まず大塩が自己の蔵書を売り払って施行を始めたことから述べられ、天満の挙兵に至る経過、さらに大塩檄文の大要が語られる。ついで大塩勢の行動と戦闘のあらましとその結果、大坂市民の反応、特に落首・狂歌のたぐいが紹介され、島津の加担・大塩薩摩落ち延び説などの風説が取りあげられている。

 次いで「農民の師友平八郎」では、大塩の門弟で乱の参加者でもある河内国茨田郡門真三番村の豪農茨田郡次をとりあげ、「郡次の回想」という形式によりながら事件の本質に迫る。郡次の拷問に屈せぬ自白拒否、世木村百姓次三郎(本文は利三郎と誤る)の大塩弁護貫徹などのエピソードを紹介しつつ、郡次という農民の目を通して大塩とその周辺の人々を描く。大塩の一揆観、そして大坂近傍の農民の暮らしとその背景についての叙述など郡次の回想として語られるとなかなかに迫力がある。特に農民の当面する問題として、近在の百姓が米作りから木綿・野菜つくりへ転換して「銭遣い」の生活に追い込まれており、米価の高騰が百姓にとっても死活の問題となっていたことなどの指摘は乱に参加した農民層の経済的背景に迫るものとして注目されるものであった。

 「よみがえる平八郎」では、平八郎の最後、乱後の社会情勢、生田万の乱、能勢一揆、支配層の動向などが述べられる。

 全体を通じて史料として『浮世の有様』がふんだんに使用されているのが印象に残る。これは大阪在住の我々としては大きな教訓と言えよう。

 中央公論社の『日本歴史』に匹敵する小学館『日本歴史』全三二巻が刊行された。大塩の乱を扱っているのは、二二巻「天保改革」で、一九七五年の発行、著者は津田秀夫氏である。大塩の乱は「爆発する民衆」のところで述べられている。文政十三年のおかげ参り、天保の大飢饉、郡内・三河一揆などの民衆蜂起に続いて〈大塩平八郎の乱とその影響〉が取りあげられる。

 著者は天保七年の飢饉がますます深刻になり、日本中に暴動の触発する危険が、熱気となってたちこめる状況を述べる。大坂高津五右衛門町の町民が雑穀屋の不正を怒り、その家屋に打ちこわしをかける。幕府は富商に諭して、窮民を賑恤させる一方、米価騰貴による何回もの打ちこわし、天狗稲荷などの「大坂中不残黒土」となるという不吉な予言の張り紙などに神経をすり減らした。大坂町奉行の跡部良弼の江戸廻米を悪政として糾弾したのが大塩平八郎であるとしている。大塩の思想については、「太虚に帰すという自然哲学的な発想に、ほんらい水と油ほどのちがいのある良知を致すという実践の原理をくみこんだ」ものとし、「太虚に帰すという思想から、結局は農村が、太古の純朴な風を有する回帰のねがいにかなう理想社会として考えられた」。大塩の与力という立場からくる矛盾は、彼の政治的関心を高め、農民の師友としての自覚は、農村で大塩流の良知の哲学を説かせる事になった。

 当面する飢饉の深刻さのなかで、大塩は「豪商と結託した幕府のよこしまな態度とその不誠実さに、通常の方法ではもはや問題は解決しないとして、ついに大坂市中で兵乱を起こすこと」をきめた。彼の学問は非常の処置を肯定し、危機的状況に対処して、繰り返し、心術の鍛錬をすることを要請し、ありきたりの道徳である温良恭倹などの美徳を排斥し、平常のときも危難の念を忘れてはならないとしていた。この意味では「その学問は危機の哲学であり、反体制の論理として展開する可能性があった」としている。

 著者はこのあと檄文の内容を解説しつつ、反乱の特徴として、「都市の反乱を周辺農村の貧民に訴えながら、都市貧民への訴えを欠いたのは、きわめてめだつ」と指摘している。乱の結果は彼の「意図とは無関係に、さらに、反幕的風潮を刺激する結果となつた」としているのが注目されるところである。

 乱後の影響として、「近世国家の矛盾と動揺が拡大するなかで、民衆闘争とふかい関連をもちつつ激発した大塩平八郎の乱の結果は全国各地につたえられ、打ちこわしをひきおこし」、またその影響で反乱が拡大する危惧があり、支配者の憂慮を招いたとする。

 また大塩の影響は、「政治的実践への共感をおぼえる吉田松陰ら幕末維新期の人々に継承された」とも云われている。



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「大塩は通史でどう描かれたか」
目次/〔三〕その2/〔三〕その4

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