Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.10.29

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大塩の乱関係論文集目次


「― 歴史における個人 ― 
    大 塩 は 通 史 で ど う 描 か れ た か 〔三〕」
その4

向江 強

大塩研究 第42号』2000.11より転載


◇禁転載◇

(四)

 第二期の『岩波講座日本歴史』12「近世4」は一九七六年に出ている。大塩の乱は大口勇次郎氏の担当である。「天保期の性格」を論じ、天保飢饉をめぐる状況のなかで、〈大塩の乱と物価騰貴〉として取り上げられている。 大口氏は大塩の目標を「彼の私塾洗心洞に集まる下級幕臣と近郷の豪農を同志として、都市下層民と豪農の下に組織された貧農層を中核に、ひろく近村の小前層に動員を呼びかけて、『下民を悩し苦め候諸役人』と『驕に長し居候大坂市中金持の町人』(「檄文」)を誅することにあった。特に批判の的は、少量の米を購入する町民を取締りながら、他方で多量の米穀を江戸に廻送して米価騰貴をあおっている大坂町奉行所にあてられた」ととらえ、大塩の計画は密告によって、予定を繰り上げた蜂起を余儀なくされ、市中を数刻占拠しただけで敗北したと述べている。

 そして、「しかし、大塩の乱はこの市中蜂起の行動だけで評価することは不十分であって、むしろ治者のイデオロギーである儒学(陽明学)に裏打ちされた政治批判の言説と、農民・下層町人による打毀しをともなう実力行動とが始めて結合したところに意義が認められよう」との重要な指摘を行った。

 そして儒学と実力行動について、「この両者は、幕藩制社会の内部において、おのおの別個に成長してきたものであり、従来は、大塩の主観においてすら分離したものであって、彼は武士の立場から一揆にたいして再三批判を加えて」いたものであつたとする。「しかし、乱以後は、下級武士による反幕府の行動のうちに、自覚的に百姓一揆を組入れる立場が生まれている。他方、一揆の論理においても、これまでは、わずかに『仁政』論によって領主批判を行なう程度であったものが、大塩の『檄文』が広く伝播してからは、『世直し』の意識を儒学の文脈において正当化することが可能となったのである。この点においても、後の反幕府政治活動と民衆の闘争に与えた影響は計り知れないものがある」と論じている。おそらくこの点の指摘は、いままで紹介してきた大塩の乱にたいする評価のうちで、最も鋭く且つ優れたものであろう。

 また大口氏は、乱後の影響として、類焼家屋の再建にさいして建築労働者の不足と労賃の高騰をあげているが、恐らくはこの事情が「大塩様お陰」という民衆の大塩観の根底をなすものであったであろう。

 通史とはいえないが、『講座日本近世史』6 「 天保期の政治と社会」(有斐閣一九八一年)には重要な論文が掲載された。青木美智男「天保一揆論」と酒井一「大塩の乱と畿内農村」の二本である。とくに酒井論文は、直接大塩の乱を本格的に論じたものであり、大塩の乱研究史上も看過出来ない意義をもっている。酒井氏は大塩研究会の会長として、会の理論的指導者としても、運動の中心的指導者としても活躍してこられた方であることはよく知られている。

 酒井論文は「はじめに」のところで大塩研究史と当面の課題をのべる。酒井氏は、藤田東湖の『浪華騒擾記事』の声を「平民的反対派」という視角でとらえ、幸田成友の『大塩平八郎』、森鴎外の『大塩平八郎』、在野の学者石崎東国の『大塩平八郎伝』を実証的な方法をもつた第一期の研究としてとらえる。

 第二期の研究として、日本資本主義論争における羽仁五郎の著名な論稿「江戸後期経済教説の発展」および「幕末における社会経済状態・階級関係および階級闘争」をとりあげ、はたして羽仁氏のいうような「無根拠な感情的な徒党」の蜂起だつたのかと疑義を提出している。

 戦後の研究の口火は、戸谷敏之氏の遺稿「中斎の『太虚』について─近畿農民の儒教思想─」であり、この方法に示唆をうけた阿部真琴氏は、前述したように大蔵永常との交流を通じてかれらの『民富観』を浮かびあがらせたとする。

 次に第三期の研究として岡本良一氏、堀江栄一氏の論稿・著書を紹介し、ついで、佐々木潤之介氏の「世直し状況」論と中村哲氏の農民革命論を看過でないものとして取りあげている。

 第四期のものとしては、自らの論文「大塩の乱と在郷町伊丹」や乾宏巳氏の「大塩の乱と農民的基盤」、中瀬寿一氏の諸論稿などを取り上げている。その上で大塩与党の農民勢力の分析、大坂市中の情勢、大塩が都市民を動員できなかった理由、大塩蜂起の持つ普遍的な意味などを考察したいとその意図を明確にした。

 論文の詳細にわたる紹介はできないので、重要と思われる点に限定して述べることにしたい。酒井氏の論文はまず、大塩与党の構成を分析し、乱前後の大坂市中・近在の社会情勢にふれ、最後に大塩の思想と組織論の形成が論ぜられる。

 大塩の与党としては、農民的反対派として、下級幕吏と豪農を軸にした結合を析出する。般若寺村の庄屋ほおずき忠兵衛と守口宿の白井孝右衛門、茨田郡士家の経営、尊延寺勢、河内綿作地帯衣摺村の参加などの項目についてそれぞれ記述している。

 次いで都市民的反対派の不参加が問題とされる。「都市民的反対」派とは、「市民的反対派」と「平民的反対派」を一括したもので、「互いに対立するこの二派をまとめて論ずる点に、大塩の都市民組織化の失策を見出しうる」とした点に酒井氏の独自の見解を見て取ることが出来よう。大坂市中のもので門弟であつたのは三人の医師の倅にすぎず、洗心洞の学風からしても、町人の容易に近寄りがたいものがあったとし、そのため市中のオルグの手掛かりは弱かったとしている。例外的な都市反対派として、大工職大和屋作兵衛と、手拭地仕入職美吉屋五郎兵衛をあげ、前者を「平民的反対派」の代表例とし、後者を「市民的反対派」と位置付けている。

 酒井氏は大塩の本屋会所での施行に関して、大塩拠出の金額が一回切りながら、鴻池善右衛門などを超える金額であったことと町人オルグの方法に注目する。「施行は本来領主や富豪層からの下賜的・恩恵的救済であり、大塩の運動の進め方には町在ふくめてこの特色がきわだっている」在方が「門弟となった村落有力者(豪農)とその類縁を通じて自村やその周辺に行われたのに対し、大坂市中の場合はどうであったか」と問い、「市中貧民=前期プロレタリアへの施行は、書林を使っているものの、思想的に武装した核を有せず、ただ不特定に与えるだけのもので、領主・豪商がおこなったものと大差なかった。いやかれらの方が、町年寄など町方の組織を活用していたのである。大塩は、都市に豪農にあたる『市民的反対派』の手がかりをつかんでいなかったのである。さりとて、『平民的反対派』であるべき前期フロレタリアへの日常的な教学の影響ももたなかった。年貢村請制生産点における共同性が、村方騒動や貧農を先頭にした世直しの攻撃の中で、豪農を軸にたもたれていた農村と、特定の家主だけが公役を負担し、下からの攻撃も日常的にもまだ熾烈をきわめず、住民もかなりの移動性を示していた町方の違いが、大塩の組織方法に限界を生んだと思われる」としてその違いと限界を指摘している。このことはまた、大塩蜂起の限界をも示唆するもので貴重な指摘といえよう。

 乱前後の市中・近在の社会情勢の分析についても取り上げるべき課題は多いが、〈大塩の乱に動かない在領勢力〉での淀川左岸下流とは異なる村落構造の指摘、〈米価高進の時期を逸す〉などでの「惜しいかな、大塩はその組織方法から洩らした都市貧民を、時期の設定においても掬えなかった」という見解などは傾聴に値するものである。

 酒井氏は最後に大塩の思想と組織論を取り上げる。〈大蔵永常との交流〉においては、永常と大塩を結ぶものとして、大塩の太虚の上に立った利済、独特の「民富観」に共通するものがあったとしている。また〈天保四年加古川筋一揆と大塩の一揆観〉では、「この一揆では『為万人捨命』と紙に記した幟を背中に差した者が数多くみられ、また『天下泰平我等之命者為万民』と記した旗があったともいう。このような数万におよぶ一揆と学問が儀三郎を大坂に向かわせた。大塩の乱に『救民』の旗が翻る原型をここに求めるのはうがちすぎであろうか」という。儀三郎はこの一揆に遭遇した加東郡河合西村の豪農の一族に連なるもので、大塩と儀三郎を結んだ思想とはなにか、と問いかける。大塩の一揆観では「仁人之可悲事」であったし、「蒼生菜色飢饉之時、一方一村成共孝悌之道を心得躬行為致置候ハゝ、心得違も不法仕候もの自ら少く」なるであろうと書き、「天地万物一体の仁」の世界を孝(愛敬の心)と見、愛敬の心を失っては災害至らざなしとしたところに大塩の学問があったとする。そして「一揆そのものを正当視できないが、そのような仁人の悲しむべき事態を生んだ者への怒りは強い」と書いている。

 〈草莽中に蟄居して定言を吐く〉では、大塩の思想を「商人のつけとどけを峻絶したことから察せられるように、『平民的禁欲主義』を基軸にした知識人の姿こそが、その思想的外被の中の経済的・社会的本質であった。このことが、都市の前期的支配に抗する豪農がその講筵につらなる理由であり、その教学にふれたかれらを軸に大坂に『天怒を謝す』(小人をしりぞける)ことになったのである」と結論されている。 おそらくこの指摘は、 大塩の思想の本質に迫るものとして優れており、今後も重要視されねばならない。



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「大塩は通史でどう描かれたか」
目次/〔三〕その3/〔三〕その5

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