Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.11.5

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大塩の乱関係論文集目次


「― 歴史における個人 ― 
    大 塩 は 通 史 で ど う 描 か れ た か 〔三〕
その5

向江 強

大塩研究 第42号』2000.11より転載


◇禁転載◇

(五)

 『日本通史U 封建制の再編と日本的社会の確立』が一九八七年に山川出版社から刊行された。著者は水林彪氏である。大塩の乱については第15章 宝暦期から天保期にいたる政治史「3節天保期の幕政改革と藩政改革」で取りあげられる。

 著者の大塩についての評価には、独特のものが見られる。大塩の行動は、大塩がそうすることが正しいということを、彼はその儒学によつて確信していたとする。そして本来、儒学は幕末期国学における権力の正当性観念とは根本的に異なり、権力の「安民」のための統治活動、公共的職務の遂行に権力の正当性を見出す思想だとする。そして権力がそれを怠る時,被治者が権力者を追放征伐(放伐)することは、原理的に正しいとされている。これは「天」がその「命」を「革(あらた)」める「革命」であり、日本においては「放伐」「革命」は不評であったとされるが、儒教の最も奥深い基礎に「放伐論」はあるとされる。それが大塩平八郎の反乱において前面に出てきたとされる。大塩がすぐにもかれの儒教を実践に移したのは、かれの儒教が陽明学であったからだとされ、なによりも人間の主体性を尊び、主体の自在な展開の中から客観的なものが形成されると信ずる儒教なのであったとされている。

 一九八九年小学館から『大系 日本の歴史』11「近代の予兆」が刊行された。執筆者は、青木美智男氏である。大塩の乱は「世直しと兵乱」のなかで〈大塩平八郎の乱〉として取り扱われている。乱の様子は〈 武士の窮乏〉〈大坂の米を江戸へ〉〈蜂起する大塩勢〉などの項目によつて叙述が進められる。

 〈潜伏する平八郎〉では、乱にたいする幕閣の対応は、情報を歪曲して流すとか、将軍家斉には軽微な事件として説明していたという。

 ところが、この情報を得た町奉行は、急に安い米が買える「富の札」を貧民に配ったり、市中と近在に御救い小屋をたてるなどの救民対策を施した。そのためか、江戸でも「江戸中の人心みな大塩をあわれみひいきす、東海道を下る人の云しには到処大塩様を称し居るとぞ」との共感を得たと記されている。箱根山中での「大塩建議書」の発見(この時には大塩建議書の全貌はまだわかっていなかった)、元大坂町奉行内藤隼人正矩佳の言説なども紹介され、総じて著者の大塩の乱に対する視野の広さを示した。

 〈歴史のなかの大塩の乱〉では、「大塩勢の首脳部は、与力・同心という幕府の最下級の武士たちと、大坂周辺農村の豪農層でしめられ、彼らが民政において直接農民に接触している階層で、政治的には現場の状況を無視した幕藩上層部の政策をもっとも強く受け、そうした政治への不満が、いつ先鋭化しても不思議でない立場にたたされていた」という。檄文の宛名が、庄屋年寄・小前百姓とされていたのは、周辺の町場化した村々の農民が最も窮乏しており、彼らこそ「救民」の対象者であり、同盟者だと判断したからにほらならないとされている。

 したがってこの蜂起の底流には、下級武士層と、村落有力層の強烈な政治不信が流れており、一方では、はじめから都市民を組織する指導層を欠如した蜂起であったともいえるとした。しかも、戦いは訓練をしたわけでもなく、事前に綿密な戦術が検討されていたものでもなく、一揆の計画性よりもはるかに劣るものだったと云う。しかし、これは大塩がことをおこすだけで十分だと判断していたからだろうとし、この兵乱の無謀さだけを強調するのは単純すぎるとした。なぜなら大塩の檄文には、深刻な危機状況のなかで、それらをうみだしている元凶をみすえながら、陽明学の思想を中核にしつつ、同時に、『天照皇大神の時代に復しがたくとも、中興の気象に恢復とて立ちもどり』たいと願望したように、当時の新思潮に未来をかける人びとと世界観を共有していた」としている。大塩は、「腐敗した権力に自力でたちむかってこそはじめて共感がえられると考えた」とし、「この結果、かれの主張と行動は、国学者生田万が即座に共鳴し決起しただけでなく、潜在的ではあれ、広範な支持層を全国的にえることになった」と結論している。

 1980年代最後の通史である『大系日本歴史』での大塩の乱は、天保時代の一揆や文化に深い造詣をもった青木美智男氏のものだけに、これまでの研究の蓄積を生かした優れたものであったと評価しておきたい。九0年代の通史については、次号で取り上げたい。

 『大塩研究』第四一号に秦達之氏の「新・歴史のなかの人間をどう捉えるか─向江強さんの批判に応えて」が掲載された。私の著書に対する秦氏の批評に私がこたえ、秦氏がそれに反論するという論争である。私が反論し、またまた秦氏が批判を加えるというのでは、論争は無限に続き、およそ論議は泥沼化する。私の云いたいことはまだまだあるが、論争はこれで一応打ち切りとしたい。ただ一点だけ、紹介しておきたい論文が出た。

 相蘇一弘氏の「天保六年、大塩平八郎の『江戸召命』について」(『大坂の歴史』54号)である。この論文は、従来定説とされていた、大塩は幕府に登用されたいという上昇志向をもっていたとされる点について、大塩の書簡をもとにこれを完全に覆す結論を得ている。大塩の江戸召命の実体は、登用どころか詰問であったことが論証されている。相蘇氏は、最近の研究者のなかで、猟官運動をしたと主張するものがあるとし、『大塩平八郎建議書』の校訂者仲田正之氏をあげている。秦氏が仲田氏の追随者であることは明らかで、この問題についていえば、今度の相蘇論文ではっきり決着がついたと言えるだろう。相蘇氏は云う。「近年大塩の乱や大塩周辺の研究はすすんだが、大塩個人についてはまだまだ石崎や幸田らの基礎的研究に負ううところが大きい。しかし、本稿で述べたように優れた研究であってもすべてが正しいとは限らない。たとえ一旦定説となっている事柄でも原点に返り、根拠とされる史料を検討し、確定してゆく作業の必要性を感じた次第である」と。実に歴史研究の基礎的原則を述べたもので私たちが深く肝に銘じなければならない言葉である。                 



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「大塩は通史でどう描かれたか」
目次/〔三〕その4/〔四〕その1

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