Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.6.2/2002.12.13訂正

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大塩の乱関係論文集目次


「玉 造 口 付 与 力 久 松 氏 と 大 塩 事 件」

村上義光・島野 三千穂

『大塩研究 第19号』1985.3 より転載

◇禁転載◇


  一、はじめに

 久松氏は切米弐百石(現米八拾石取り @) の大坂城御定番玉造口付与力の家筋であった。大塩氏が東町奉行所付の町与力であったのに対し、久松氏は御城付与力で、主に大坂城玉造御門Aを守衛したB。(玉造口付与力は三拾騎で同心百人を配下に持って居た。天保十年の大坂袖鑑によると居所は玉造十四軒屋敷、同六軒、同十軒にあった。四百坪の敷地で八十坪の足し地を合せて四百八十坪であったC。久松氏の宗旨は曹洞宗であって生玉寺町の齢延寺を菩提寺としていた。

 扨て島野収蔵久松家文書五十六点Dより大塩事件関連史料を紹介し、併せて他記録と対比しつつ、玉造口付与力久松氏を考察する事にしよう。

二、紹介文書と解説

(一)久松九一郎与力新任経緯の覚書

 本文書には大塩の乱時の武功に対する賞与として、坂本鉉之助は、銀百枚を拝受し、御目見以上末席に昇進、旗本格に列し、大坂鉄砲方を拝命、其の後任与力として、久松九一郎が選ばれた経緯が詳細に記録されている。

 本文書を通読して興味深いと思われる点は、久松九一郎二十一才が坂本鉉之助の後任与力として新任されたのは、事変後三年目の天保十年である(鉉之助の旗本格昇進は天保八年八月二十一日)*1。未曾有の大塩の大事変後でも、いさヽかも幕府側体制革新の意図などは窺えず、封建身分制の牢固たる形態が、厳然として踏襲されていること、後任選考母体が鉉之助前所属の玉造口付与力、三十家の子弟二、三男の極少部分のみに限られている事がわかる。

 本事変衝撃の大きさから、せめて定番玉造口付与力のみに限らず、玉造口同心百人をも含めた選考母体からの人材登用を計りそうなものと思うが、当時の家職世襲の身分制が今更乍ら、吾々の想像以上のものである事を感じさせる。

 さすがに武芸選考見分の基準を砲術に置いていることが伺われる、これのみに多少、本事変の影響が感じられる。

 玉造口付与力は、「江戸表若年寄中より御達」とある所を見ると、大坂城代にその補任権限はなく、江戸幕府の許認可を要する職分である事は明確である。

(二)事変時における久松家の働き

(1)天保十三年の久松家由緒書に、左の記事がある。

(2)坂本鉉之助の「咬菜秘記E」に記録されているもの。

(3)「塩賊騒乱記」Fに左の記事がある。

以上の如く、久松氏は、事変時坂本鉉之助の様な華々しい市街戦をやる事なく、当主彦三郎、隠居権兵衛、次男九一郎の一家総出動で、大坂城門警固の任務についた事が確認される。また「咬菜秘記」では、隠居権兵衛(彦左衛門隠居後、権兵衛、程翁と称す)の言動の無思慮性を、軽く突いている点や、騒乱記では権兵衛が、陣中の振舞酒に甘露の如し、など片言ではあるが、かえって当 時の感じを伝えていて興味深い。

三、親類書と家系図

 与力より御頭と呼ばれていた、玉造口定番は壱、弐万石の譜代大名から選任されたG、任期は定っていなかったが、幕命により交代し、其の後任に引継の為参府した。その時与力は自己の出自等を親類書にして退任の定番に提出して託する慣わしであった。親類書は与力にとって、後任定番に自己を知らしめる一番大切な文書であった。それは次の史料等によってわかる。

 扨て、長文の親類書を紹介する煩を避けて、ここでは久松氏家系図を復元作成して、縁辺の考察を加えるのみにしよう。

 久松氏大坂初代を権兵衛と言い、この人は前掲天和三年(一六八三)「大坂御定番諸留書」で、玉造口勤番が確認出来る。権兵衛程翁まで六代同じ名前を嗣いだらしい。大塩事件で坂本鉉之助の後任与力として、彦三郎の弟、九一郎も新任登用され、久松家はこれより二騎の与力を勤めた。婚姻は玉造口与力、岸和田岡部美濃守家来、滋岡天神宮神主等を中心として結ばれて居る。

 「咬菜秘記」に「其曰大井伝治兵衛の親類久松彦三郎は到一郎(正一郎)の行衛を尋んと天王寺辺ヘ……」、「伝治兵衛 が云には、忰到一郎(大井正一郎)……」とあって、大井伝治兵衛正一郎父子が久松彦三郎と親類であった事が判る。この大井氏は玉造口付与力で忰正一郎が大塩塾入塾後、挙兵に加わったのである。右記系図の久松新三郎の大井家への養子入りを親類と表現したと考えられる。久松文書では大井新兵衛と伝治兵衛の親縁関係は証明出来ないが、大井氏と遠縁に当る藤家文書にH、「伝治兵衛(守助、伝兵衛とも記録)の妻が新兵衛の娘であり(伝冶兵衛は養子と云う事になる)、伝治兵衛の娘が信である。」と記載があるので確実である。しかし、藤家文書には正一郎の名 の記載がなく「信が正一郎の姉である」という口伝があるのみである。この事に就き、藤伸氏は「正一郎の処刑された二十三才という年令より見て、おそらくは、大塩挙兵の天保八年以前に除籍もしくは勘当という事にしたか、あるいは、娘信の婚姻の妨げになるとの考えから記載しなかったのではないかとも考えられるI」 と述べられて居る。久松家文書にも同様、大井正一郎については何の記載もない。

四、おわりに

 久松家文書五十六点中には、大坂町奉行所与力と、大坂城定番付与力との相違点とか、或は其の両者の確執的なもの、其の補任の形態、御譜代席と御抱え席、縁組規制とかが散見され、大塩事変への大阪為政の背景としても、興味を惹くがいずれも今後の研究課題である。


【註】

@  「大坂御勘定方記録」大阪府立中之島図書館文書番号9の2。
A 大坂城東南の溺手口で大手口と同様な枡形を形成して居た。現大阪府警射撃場上方に門跡がある。
B 「大坂御定番諸留書」大阪府立中之島図書館文書番号9の1。通常の職務は御門の通行者、荷物等の検閲、鍵の保管等であった様である。享和二年の「大坂袖鑑」によると、御破損、蔵目付、小買物、御塩噌、御石、欠所等の城内役所共通の御勤もあった。
C 『大阪編年史』第五巻、承応三年の項三八五−三八八頁に久松氏の不足足し地記載あり。
D 島野収蔵文書書状十六、親類書、由緒書廿四、屋敷地図一、その他十五、計五十六点。
E 岡本良一『大塩平八郎』、付録二三六〜七頁。
F 『大阪編年史』第十八巻天保八年二月、三七四頁。
G 『上方』第十一号「大坂城の衛戍勤番制度」四四頁(一一七二頁)。
H I 藤伸「大塩の乱に関する一考察−藤次重のこと−」『大阪体育大学紀要』第六巻、昭和四九年十二月。


(付記) 酒井一先生、藤伸先生の御教示を戴きました事を厚く御礼申し上げます。

               (住吉古文書教室)



管理人註
*1 これは天保年八月二十一日の幕府裁決申渡による。


坂本鉉之助「咬菜秘記」その28その51
村上義光・島野三千穂「大坂城玉造組定番与力久松家文書 1〜4」
「浮世の有様 巻八 大塩一件落著」その1


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