村上義光・島野 三千穂
『大塩研究 第19号』1985.3 より転載
一、はじめに 二、紹介文書と解説 三、親類書と家系図 四、おわりに
久松氏は切米弐百石(現米八拾石取り @) の大坂城御定番玉造口付与力の家筋であった。大塩氏が東町奉行所付の町与力であったのに対し、久松氏は御城付与力で、主に大坂城玉造御門Aを守衛したB。(玉造口付与力は三拾騎で同心百人を配下に持って居た。天保十年の大坂袖鑑によると居所は玉造十四軒屋敷、同六軒、同十軒にあった。四百坪の敷地で八十坪の足し地を合せて四百八十坪であったC。久松氏の宗旨は曹洞宗であって生玉寺町の齢延寺を菩提寺としていた。
扨て島野収蔵久松家文書五十六点Dより大塩事件関連史料を紹介し、併せて他記録と対比しつつ、玉造口付与力久松氏を考察する事にしよう。
天保十己亥年三月廿五日、江戸表若年寄中ヨリ御達
此度其表組与力阪本玄之佑(ママ)、御旗本格御鉄砲奉行被 仰付罷在候ニ付、右跡与力江其与力共之内、二男三男砲術ハ勿論外芸術格別相勝レ、強体篤実ナル者江御抱入相成候ニ付、其頭逸々(イチイチ)見分致シ見ニ留タル者、篤ト取調可相伺旨被 仰出候事
一、右御達有之ニ付、与力中二、三男逸々見分可致旨ニ而与力中不残何時ニ而モ御用ニ可相立者、撰ミ書出シ上ゲ惣テ芸術之見分可致ト達候ニ付、不残書出則直ニ見分定日ニ相達候旨、御沙汰有之候事
一、過日御達シニ相成候二、三男武術見分跡有之旨、尤朝六ツ時半時、惣相揃エ候様ニ月番之与カヨリ廻文有之ニ付、直ニ其心得ニ而弟久松九一郎儀出席仕度ク用意ヲナス
一、御頭遠藤但馬守家老松井与七郎公用人粥川小十郎、餌取権右衛門、畑佐秋之助、後役松井勘右衛門、大目付外々役々、同心支配役岡翁助、本多為助、本間重左衛門、取締役八田又兵衛、柘植貞右衛門、小林新之丞、高橋佐左衛門、柴田勘兵衛外ニ月当番之与力不残、見分所江出座御呼出、二、三男何れモ相揃エ弓馬剣、鎗柔鉄砲逸々見分有之、夕刻ニ至り何れモ相済、但馬守殿ヨリ何れモ芸術一覧及候処、達者一段之事ニ候、尚此上出精専一ニ可致旨御達月番筆頭ヨリ及御請ニ、何れモ引取候
一、過日二、三男但馬守殿御覧ニ相成候処、右多人数之内三人御目ニ留リ、尤此者儀ハ既ニ大塩平八郎乱防(妨)之節、早速ニ夫々相固メ御用相立者ナリ、内ニモ久松彦三郎弟同苗久松九一郎儀ハ又格別砲術、他芸術モ達者ニ見届ケ、兄久松彦三郎其父久松程翁儀ハ、兼々砲術教授モ致シ居、忰彦三郎儀モ格別砲術ハ達(タン)練イタシ居者之弟故ニ尚更、御用ニモ可相立ト考ヘ強体ナル者ニ有之ニ付、追而御沙汰可有之旨、公用人粥川小十郎ヲ以テ内達シ有之旨、又申来候事
一、過日内沙汰有之、久松九一郎儀其親兄同人ハ勿論御聞合セモ相済、聊モ違ヒ之廉モ有間敷ニ付、直ニ江戸表エ宿次ヲ以被 仰上有之候ニ付甚麁略ナル事ヲ厳重ニ想而相慎ミ、偏ニ芸術出精可致旨達シ有之候事
一、頭遠藤但馬守殿ヨリ達シ
久松彦三郎
其方弟、久松九一郎儀此度阪本玄之介(ママ)跡与力、御切米弐百石ニ御抱入被 仰付、其方儀炮術ハ勿論諸芸術格別ニ出精相励、弟九一郎へ永録被下置候ニ付万事心附可致候
久松九一郎
其方儀阪本玄之介(ママ)跡江、新規御抱入御切米弐百石被 仰候、勤方之儀同様ニ御心得厳(急)度御用ニ可相立候様可致候
一、例年之通り江戸表ヨり、大目付衆与力一同并同心共一同鉄砲見分有之ニ付、角前(カクマエ)中り打終リ、大玉百目玉筒、五拾匁玉筒、三拾目玉筒、拾匁玉筒、強薬(ゴウヤク)備打等モ見分有之ニ付、兄久松彦三郎百目玉筒立放、壱放(ハツ)膝台壱放、五拾匁玉筒立放込替三放、拾匁玉筒鎗前備打可致九一郎儀ハ、拾匁玉筒込替備打可致心得ニ候
一、弥本日、大目付弐人、頭遠藤但馬守殿立会ニ而、順々拾匁玉筒角前打、久松彦三郎儀立放弐放星ニ中(アツ)、九一郎儀星角ニ中、其外前書之通り見分ヲ受ケ夕刻ニ無滞相済候
一、右御見分九一郎儀者、初テノ処星角ヲ打、兄久松彦三郎儀ハ、諸(モロ)星ヲ打、都而打前ハ見事ナリ実ニ御用ニ可相立者ト、但馬守殿悦ヒ不斜トノ儀被仰渡候
(傍点−ゴチック−引用者、以下おなじ)槍術ハ 大嶋流 剣術ハ 天羽流 鉄砲 大筒小砲共 荻野流 馬・場(術)ハ 大坪流 弓術ハ 日置流也
本文書には大塩の乱時の武功に対する賞与として、坂本鉉之助は、銀百枚を拝受し、御目見以上末席に昇進、旗本格に列し、大坂鉄砲方を拝命、其の後任与力として、久松九一郎が選ばれた経緯が詳細に記録されている。
本文書を通読して興味深いと思われる点は、久松九一郎二十一才が坂本鉉之助の後任与力として新任されたのは、事変後三年目の天保十年である(鉉之助の旗本格昇進は天保八年八月二十一日)*1。未曾有の大塩の大事変後でも、いさヽかも幕府側体制革新の意図などは窺えず、封建身分制の牢固たる形態が、厳然として踏襲されていること、後任選考母体が鉉之助前所属の玉造口付与力、三十家の子弟二、三男の極少部分のみに限られている事がわかる。
本事変衝撃の大きさから、せめて定番玉造口付与力のみに限らず、玉造口同心百人をも含めた選考母体からの人材登用を計りそうなものと思うが、当時の家職世襲の身分制が今更乍ら、吾々の想像以上のものである事を感じさせる。
さすがに武芸選考見分の基準を砲術に置いていることが伺われる、これのみに多少、本事変の影響が感じられる。
玉造口付与力は、「江戸表若年寄中より御達」とある所を見ると、大坂城代にその補任権限はなく、江戸幕府の許認可を要する職分である事は明確である。
(二)事変時における久松家の働き
(1)天保十三年の久松家由緒書に、左の記事がある。
大坂玉造口御定番 酒井右京亮組与力 養子 久松彦三郎 寅歳四十四 高現米八拾石 本国尾張 生国摂津
文恭院様御代文化十一戌年正月廿六日、本庄河内守組之節、奉願実弟之続以養子罷成、同年四月朔日養父准太郎跡目被 仰付候旨頭同人申渡、文政十二丑年十二月十六日御目付立会、鉄砲見分十ケ年皆中仕候付、御褒美銀弐枚被下置候段、頭酒井飛騨守申渡。天保八酉年二月十九日当地市中放火乱妨之節、頭定之通同廿一日迄、玉造口御門警衛仕、同九戌年九月三日去酉年、大坂町奉行跡部山城守組与力大塩格之助養父大塩平八郎頭取徒党之者共、当地市中放火及乱妨候節、御番所向其外持場内等厳重相固候段誉置候様、従江戸表被 仰下候旨 頭遠藤但馬守申渡寅年迄二十九年相勤罷在候。
一、養祖父 久松彦左衛門
右文化四卯年十月十六日、本庄河内守組之節、退番頭同人申渡隠居仕、天保八酉年二月十九日大坂町奉行跡部山城守組与力、大塩格之助養父大塩平八郎頭取徒党之者共、当地市中放火及乱妨候節、自分筒持参御門、其外所々相固、怪敷者召捕方等骨折候付、同九戌年九月三日為御褒美金三両被下置候段、遠藤但馬守申渡、同十二丑年閏正月廿日病死仕候
一、養父 久松准太郎
文恭院様御代文化四卯年十月六日、本庄河内守組之節、父彦左衛門跡目被 仰付候旨頭同人申渡、同十一年戌年正月廿六日病気付、跡目奉願置同月廿九日病死仕候
一、養祖父養父私、遠慮逼塞閉門等都而御咎之儀無御座候、以上
天保十三寅年十二月 久松彦三郎
(2)坂本鉉之助の「咬菜秘記E」に記録されているもの。
二月十九日筋銅(鉄)御門へ固めに出でたる与力隠居久松権兵衛へ、東町奉行組与力寺西文左衛門より掛合ありて、 何卒大筒を役所へ仕掛けて呉れよと頼みあり、其節権兵衛返答に、 何時にても即時に仕掛け可申と云て、百目運(ママ)中の長筒を石川門内にて用意ありたりと権兵衛咄すに付、貞申すには 火急のこと玉薬ハ如何と、尋ねたれば 百目玉五ツ用意したりと云故、貞直ニ権兵衛へ申述べたるハ、左程の用意にて、中々必至の場所ニ至て戦ふことは出来ぬ訳なり(中略)
此権兵衛ハ貞より遥かに先輩にて、同流ながら荻野隼雄が門人にて貞が門にはあらず。少し斟酌もあれども御奉行前云はすに置かれぬことと思ひて申したり。
(傍点−ゴチック−、すべて引用者)
(3)「塩賊騒乱記」Fに左の記事がある。
与力、同心之隠居、二男、三男迄も、男子たるもの十五歳以上之者共を催促あって(中略)玉造与力久松彦三郎か親父隠居、六十四歳ニ成し権兵衛ハ、次男十九歳ニなりし九一郎と共に、筋鉄御門を守りて働しに、権兵衛ハ酒客なると、町奉行より土瓶ニ酒 を入て此処へ出されたるを呑しか、のとかはきたる折なれハ、甘露のごとく覚えしとそ
以上の如く、久松氏は、事変時坂本鉉之助の様な華々しい市街戦をやる事なく、当主彦三郎、隠居権兵衛、次男九一郎の一家総出動で、大坂城門警固の任務についた事が確認される。また「咬菜秘記」では、隠居権兵衛(彦左衛門隠居後、権兵衛、程翁と称す)の言動の無思慮性を、軽く突いている点や、騒乱記では権兵衛が、陣中の振舞酒に甘露の如し、など片言ではあるが、かえって当 時の感じを伝えていて興味深い。
与力より御頭と呼ばれていた、玉造口定番は壱、弐万石の譜代大名から選任されたG、任期は定っていなかったが、幕命により交代し、其の後任に引継の為参府した。その時与力は自己の出自等を親類書にして退任の定番に提出して託する慣わしであった。親類書は与力にとって、後任定番に自己を知らしめる一番大切な文書であった。それは次の史料等によってわかる。
玉造口付組与力久松氏家系図(◎生玉寺町の齢延寺の十七基の墓碑銘で確認出来る人) (略)
江戸御城ニ納り候与力親類書写
此帳ハ万治四年丑正月、右保科弾正忠正貞殿、御定番役、願ニ依而御免候節、御跡役石川播磨守殿江先達而被遣候、於江戸、播磨守殿御覧之上、本帳ハ営中へ被差上、江戸御城ニ納リ申候写ヲ被成、爰元ヘ御持参、御頭御代ニ今ニ伝り申候
扨て、長文の親類書を紹介する煩を避けて、ここでは久松氏家系図を復元作成して、縁辺の考察を加えるのみにしよう。
久松氏大坂初代を権兵衛と言い、この人は前掲天和三年(一六八三)「大坂御定番諸留書」で、玉造口勤番が確認出来る。権兵衛程翁まで六代同じ名前を嗣いだらしい。大塩事件で坂本鉉之助の後任与力として、彦三郎の弟、九一郎も新任登用され、久松家はこれより二騎の与力を勤めた。婚姻は玉造口与力、岸和田岡部美濃守家来、滋岡天神宮神主等を中心として結ばれて居る。
「咬菜秘記」に「其曰大井伝治兵衛の親類久松彦三郎は到一郎(正一郎)の行衛を尋んと天王寺辺ヘ……」、「伝治兵衛
が云には、忰到一郎(大井正一郎)……」とあって、大井伝治兵衛正一郎父子が久松彦三郎と親類であった事が判る。この大井氏は玉造口付与力で忰正一郎が大塩塾入塾後、挙兵に加わったのである。右記系図の久松新三郎の大井家への養子入りを親類と表現したと考えられる。久松文書では大井新兵衛と伝治兵衛の親縁関係は証明出来ないが、大井氏と遠縁に当る藤家文書にH、「伝治兵衛(守助、伝兵衛とも記録)の妻が新兵衛の娘であり(伝冶兵衛は養子と云う事になる)、伝治兵衛の娘が信である。」と記載があるので確実である。しかし、藤家文書には正一郎の名
の記載がなく「信が正一郎の姉である」という口伝があるのみである。この事に就き、藤伸氏は「正一郎の処刑された二十三才という年令より見て、おそらくは、大塩挙兵の天保八年以前に除籍もしくは勘当という事にしたか、あるいは、娘信の婚姻の妨げになるとの考えから記載しなかったのではないかとも考えられるI」
と述べられて居る。久松家文書にも同様、大井正一郎については何の記載もない。
久松家文書五十六点中には、大坂町奉行所与力と、大坂城定番付与力との相違点とか、或は其の両者の確執的なもの、其の補任の形態、御譜代席と御抱え席、縁組規制とかが散見され、大塩事変への大阪為政の背景としても、興味を惹くがいずれも今後の研究課題である。
@
「大坂御勘定方記録」大阪府立中之島図書館文書番号9の2。
A 大坂城東南の溺手口で大手口と同様な枡形を形成して居た。現大阪府警射撃場上方に門跡がある。
B 「大坂御定番諸留書」大阪府立中之島図書館文書番号9の1。通常の職務は御門の通行者、荷物等の検閲、鍵の保管等であった様である。享和二年の「大坂袖鑑」によると、御破損、蔵目付、小買物、御塩噌、御石、欠所等の城内役所共通の御勤もあった。
C 『大阪編年史』第五巻、承応三年の項三八五−三八八頁に久松氏の不足足し地記載あり。
D 島野収蔵文書書状十六、親類書、由緒書廿四、屋敷地図一、その他十五、計五十六点。
E 岡本良一『大塩平八郎』、付録二三六〜七頁。
F 『大阪編年史』第十八巻天保八年二月、三七四頁。
G 『上方』第十一号「大坂城の衛戍勤番制度」四四頁(一一七二頁)。
H I 藤伸「大塩の乱に関する一考察−藤次重のこと−」『大阪体育大学紀要』第六巻、昭和四九年十二月。
(住吉古文書教室)