Я[大塩の乱 資料館]Я
2016.12.12

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「大塩の乱関係論文集」目次


「浪花の狂刃 大塩中斎の事蹟」
その5

中山蕗峰

『文武仁侠大和錦』東洋興立教育会出版部 1917 所収

◇禁転載◇

二 天変地妖(2)

管理人註
  

               としごと  風雲とは何事ぞ、天保二年より年毎に天荒れて諸国に災害相続いて起り、 稲は実らず、麦は腐り、野菜穀類一として収獲の出来るものなくして、天            がへう 下一統の大饑饉となり、餓累々として野に満つるに至つたことである。        にく              たくまし 天何を煩ひ何を悪みて斯くも惨害を逞うするものか、天保二年には春より 夏、秋にかけて霖雨打続き、翌三年も夏一夏、日の眼を拝むこと出来ず、                            あまつさ  おほい 関東関西大洪水して田畑人畜の押流さるゝもの数を知らず、剰へ地大に                     かいせう 震ひて家は倒れ、人は死に、四国九州には大海嘯来つて、沿岸の漁村も都   ひと       市も一なめにされ、翌けて四年となり五年となっても、雨に風に地震に天 変地妖の絶ゆる時なく、年々の事なれば、新穀の収獲は毫厘もなく、旧穀 は尽きて倉廩は空しくなり、天保七年に至つて惨状は其の極に達し、親は 子の食を奪ひ、夫は妻を養はず、病あるものは病むが儘に委せ、死者を葬                            かしこ ることも出来ず、当時の旧記を探れば、大阪市中の如きは、彼処の軒下此 処の軒下に行倒れの出来ること日々数知らず、子を負へる母のバタリ路上               をさなご に倒るるあれば、親の手を曳く幼子の又共々に倒れ伏して起ち上るを得ず、 其処此処の死骸を嗅ぎ歩く犬さへ飢ゑて人の肉を食ひ、死骸を片づけに来   をんばう                     れる隠坊が、其の死骸を負うた儘、己れも倒れてそれ限りに死ぬるといふ 有様、其の惨状見るさへ魂の消ゆる有様であつたが、如何にせしものか、 かみ                         はな       のろ 上に在るもの是等の急を救はんともせず、市民怨嗟の声を放つて上を詛ひ 人を怨み、寄り/\に集つては不穏の企てをも為すに至つた。斯かる様を 見てゐたる大塩平八郎、何でう黙してあらるべき、起つて市民救済の為に 心力を尽さんとしたが、イヤ待て我は隠居の身、一応順序は踏まざるべか                かみ らずと、先づ養子格之助をして、上の倉廩を開かれんことを奉行に進言せ しめたが、あはれ斯る時に尚更思ひ出でらるゝは高井山城守、此の人今も        さま あれば今の此の様は無からんにと、平八郎声を挙げて泣かざるを得なかつ た。といふのは高井山城守の後任として来りし跡部山城守は、先の奉行と は人物も手腕も雲泥の差で、私曲を逞しうし賄賂を貪り、たゞ己れの為に        謀つて善政を布くを知らざるの小人、平八郎は常々此の人物の頼るべから ざるを嗟嘆してゐたのであるが、案に違はず今日の危急に臨んでも上の為     しも                        はから に謀つて下を救はず、養子格之助が進言に対しても、唯だ何とか謀はんが           じんぜん        がう        こたび 今暫く待てとのみにて荏苒決しない。平八郎贅を煮して今度は自ら奉行所 に出頭して意見を開陳し、先の日の約束を履行せられたしと迫つたるに、 隠居の身を以て要なき諫言、猶更以て聴くところあらずと、今は一縷の望                  ふさ みも絶えたる挨拶に、平八郎開いた口塞がらず、憤然席を蹴つて立帰つた が、其の瞬間に彼は已に次の計画を胸中に描いたのである。



幸田成友
『大塩平八郎』
その99





霖雨
何日も降り続く雨



海嘯
満潮の際、河口に
入る潮波の前面が
垂直の高い壁状に
なり、砕けながら
川上に進む現象














隠坊
火葬場において
死者を荼毘に付
し、遺骨にする
仕事に従事する
もの





幸田成友
『大塩平八郎』
その105














荏苒
なすことのない
まま歳月が過ぎ
るさま

贅を煮やし
業を煮やし


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