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としごと
風雲とは何事ぞ、天保二年より年毎に天荒れて諸国に災害相続いて起り、
稲は実らず、麦は腐り、野菜穀類一として収獲の出来るものなくして、天
がへう
下一統の大饑饉となり、餓 累々として野に満つるに至つたことである。
にく たくまし
天何を煩ひ何を悪みて斯くも惨害を逞うするものか、天保二年には春より
夏、秋にかけて霖雨打続き、翌三年も夏一夏、日の眼を拝むこと出来ず、
あまつさ おほい
関東関西大洪水して田畑人畜の押流さるゝもの数を知らず、剰へ地大に
かいせう
震ひて家は倒れ、人は死に、四国九州には大海嘯来つて、沿岸の漁村も都
ひと あ
市も一なめにされ、翌けて四年となり五年となっても、雨に風に地震に天
変地妖の絶ゆる時なく、年々の事なれば、新穀の収獲は毫厘もなく、旧穀
は尽きて倉廩は空しくなり、天保七年に至つて惨状は其の極に達し、親は
子の食を奪ひ、夫は妻を養はず、病あるものは病むが儘に委せ、死者を葬
かしこ
ることも出来ず、当時の旧記を探れば、大阪市中の如きは、彼処の軒下此
処の軒下に行倒れの出来ること日々数知らず、子を負へる母のバタリ路上
をさなご
に倒るるあれば、親の手を曳く幼子の又共々に倒れ伏して起ち上るを得ず、
其処此処の死骸を嗅ぎ歩く犬さへ飢ゑて人の肉を食ひ、死骸を片づけに来
をんばう ぎ
れる隠坊が、其の死骸を負うた儘、己れも倒れてそれ限りに死ぬるといふ
有様、其の惨状見るさへ魂の消ゆる有様であつたが、如何にせしものか、
かみ はな のろ
上に在るもの是等の急を救はんともせず、市民怨嗟の声を放つて上を詛ひ
人を怨み、寄り/\に集つては不穏の企てをも為すに至つた。斯かる様を
見てゐたる大塩平八郎、何でう黙してあらるべき、起つて市民救済の為に
心力を尽さんとしたが、イヤ待て我は隠居の身、一応順序は踏まざるべか
かみ
らずと、先づ養子格之助をして、上の倉廩を開かれんことを奉行に進言せ
しめたが、あはれ斯る時に尚更思ひ出でらるゝは高井山城守、此の人今も
さま
あれば今の此の様は無からんにと、平八郎声を挙げて泣かざるを得なかつ
た。といふのは高井山城守の後任として来りし跡部山城守は、先の奉行と
は人物も手腕も雲泥の差で、私曲を逞しうし賄賂を貪り、たゞ己れの為に
し
謀つて善政を布くを知らざるの小人、平八郎は常々此の人物の頼るべから
ざるを嗟嘆してゐたのであるが、案に違はず今日の危急に臨んでも上の為
しも はから
に謀つて下を救はず、養子格之助が進言に対しても、唯だ何とか謀はんが
じんぜん がう こたび
今暫く待てとのみにて荏苒決しない。平八郎贅を煮して今度は自ら奉行所
に出頭して意見を開陳し、先の日の約束を履行せられたしと迫つたるに、
隠居の身を以て要なき諫言、猶更以て聴くところあらずと、今は一縷の望
ふさ
みも絶えたる挨拶に、平八郎開いた口塞がらず、憤然席を蹴つて立帰つた
が、其の瞬間に彼は已に次の計画を胸中に描いたのである。
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幸田成友
『大塩平八郎』
その99
霖雨
何日も降り続く雨
海嘯
満潮の際、河口に
入る潮波の前面が
垂直の高い壁状に
なり、砕けながら
川上に進む現象
隠坊
火葬場において
死者を荼毘に付
し、遺骨にする
仕事に従事する
もの
幸田成友
『大塩平八郎』
その105
荏苒
なすことのない
まま歳月が過ぎ
るさま
贅を煮やし
業を煮やし
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