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斯くて歳月が流れて平八郎今や三十七歳、益々油の乗つて之より益々己
よはひ
が抱負を実行せんとするの期に入つたが、時しも山城守は齢七十を越えた
や
れば劇務に堪へずして奉行の職を辞した。平八郎失望遣る方なけれど、己
れ斯くも身命を賭して公事に尽したるは山城守の知遇に感憤したるなれば、
とゞ
山城守職を退き給はゞ我亦独り留まるべからずと、奉行の退職と同時に、
己れも養子格之助に職を譲り、悠々閑地に退いて余生を楽むこととした。
山城守其の才を惜み、切に職に留まらんことを勧告したれど、平八郎聴か
ふる
ず、さらば之を江戸幕府に薦めて其の手腕を中央の舞台に揮はしめんとし
たが、平八郎、そは益々知遇に背くものなればと強ひて之を謝し、早速隠
居して兼て好む学事に力を注ぐ事とした。平八郎の最も好むところは陽明
の学である。其の知行合一の説は、平八郎に取つては実生活上の唯一の信
條にして、唯だ学問の為に学問をする腐儒の輩と同日に語るべきでなかつ
た。当時一派の覇者として名を知られたる頼山陽、佐藤一斎、角田九華、
田能村竹田、矢部駿河守、大友遠霞、斎藤拙堂等の諸星が、与力平八郎を
畏友として親交してゐたのを見ても、如何に平八郎が蘊蓄の深き人格者で
あつたかを知ることが出来よう。
のち
平八郎一たび隠居したる後は殆ど世事と関せず、養子格之助に折々の意
見を加ふる外は其の行動をも自由に任せ、己れは読書三昧に余生を送つて、
そゝ
書を読むこと正に数万巻、其の間に心血を濺いで「洗心洞剳記」を著し、
知己を千載に待つの大なる抱負を以て其の板成るや、一本を伊勢皇大神宮
さんてん
の倉庫に奉納し、又一本を冨士山に携へ登り、山巓の一洞窟に深く埋めて、
おの
己が精神のあるところを山霊に告げまつゝた。
斯くて過ぎ行く年月ならば如何に幸福であつたらうが、天は又も風雲を
きた
起し、平八郎を血に泣かしむるに至つた。あらず、斯かる時の来ればこそ、
ど
平八郎を此の土に生れしめて破邪顕魔の鉄槌を振はしめたのである。
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幸田成友
『大塩平八郎』
その49
幸田成友
『大塩平八郎』
その80
角田 九華
(つのだきゅうか
1784-1856)
豊後国岡藩出身
中井竹山に学ぶ
幸田成友
『大塩平八郎』
その58
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