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『それはさうと阿爺さん!どちらにしても稲荷様なら、米の事はお詳し
いでせうが、天保年度の飢饉に義旗を挙げられた大塩中斎の事に就て、
何かお聞き及びの事でもあつたら伺ひたいものですね。』
げん
僕の斯の言に座り直した老神官は黙つて考へ込んだので、今にも御託が
さが
下るのかと僕は何となく神前に出て居るやうな、謹厳な心にななつた。
『私の前身は三田藩士でごはすが、同藩の士で、匹田繁之丞と申す者、
これは只今京都に住んで居る筈でごはすが、此の者の父、隼之助と云ふ
のは、久しく藩の武道指南番をしてゐたなか/\の豪傑でごはした。十
七歳の時から大塩の門に入つて、学問武術に出精したさうでがすが、二
あ
十一歳の時病気の為に退塾したので、彼の騒動には加はらなかつたさう
あ
でがす。彼の八釜しい檄文を小前の者が拾つて来たとかで大勢の者が集
と
まつてガヤ/\騒いでゐるので、其の趣旨を釈いて聞かせ、皆な連れて
出掛けて行きかけたが途中、大塩方は敗けて逃げて了つたと聞いて引返
したとか聞いてゐますのぢや。隼之助の話では、彼の騒動はたしか退塾
した翌年の出来事でごはしたさうで…………』
こんな山中で多少とも中斎の事を知つてゐる人に遇ふなどゝは、僕に取
かたはら
つて実に意外であつた。不思議や傍の衝立に、
ルヽ ニ ハ フルニ ヲ テ ノ ヲ トシテ ブ
逃空谷者藜乎之径、聞人足音跫然而喜矣
じよむき
と荘子徐無鬼篇の語が録されてある。
『今の小寺謙吉氏の父泰次郎氏が三田藩の勘定方をしてゐた当時、余り
取立てが厳しいので、恐ろしい百姓一揆が起つたと聞きましたが、お話
の匹田氏などが、当時の首謀者ではなかつたのですか。』
あ
『左様々々、彼の一揆は大塩騒動の影響でごはしたさうでがす。首謀者
であつたか何うか、其処の所は知らんでがすが、匹田も加はつてゐたこ
ねんぐ
とは確かでがす。何せあの時は五ツ二分五厘と云ふ重税でごはしたから、
や
全く行りきれなんだでごはしやう。』
『五ツ二分五厘と云ひますと?』
『一反の田に平均二石の収穫しか無いところへ持つて来て、一石二斗五
升と云ふ重税を課けられたのでごはす。』
『それぢや資産階級と云ふ幕府の為にされてゐる今日の鍬を持て絞首台
に上げられつゝ居る小作人よりはマシですね。尤も彼の頃はその位はま
まし
だ優な方で、或る地方では収穫以上の年貢を課してゐたと云ふぢやあり
ま さ おそ
ませんか、その上また増税れるかも知れぬ虞れがあるので、田地に金を
て
添へて人に譲らうとしても、譲り受け人が無い。それかと云ふて他国へ
つかま しおき
逃げやうものなら、お尋ね者になつて、捉つたら処刑にされると云ふの
で、田地持は死ぬより外に助かる道は無かつたさうですね。』
『先生は未だお若いのに、なか/\よく御存知でごはすな。大塩先生が
たみ
あれ程の事をなされたのは、民を塗炭の苦しみから救ふ為で、よく/\
そのころ
の事であつたのでごはせう。当時の事を思ふと、今の田地持なんぞは結
構なもんですな。』
例の青年会長、M君が嘴を入れた。
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幸田成友
『大塩平八郎』
その51
小寺謙吉
1877-1949
神戸市長など
歴任
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