Я[大塩の乱 資料館]Я
2011.5.11

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大塩の乱関係論文集目次


『大阪府誌 警察史』

その57

大阪府 1903 より


◇禁転載◇

 第二章 維新後   第一節 警察署設置以前  慶応四年正月十日、市内東区安土町西本願寺掛所を以つて、本営となし、 仁和寺宮、之れが長官となりて、当地施政上の万般を布令せられき。 ついで同十五日、宇和島少将、代りて之れが長となり、同二十一日、薩長 芸三藩に市中の取締を委ね、之れに当時既に帰順せし旧幕臣の与力同心を 採用し、旧京橋組与力は芸藩に、同同心は長藩に、旧玉造組与力同心は薩 藩に、何れも属し、称して浪花隊といひ、以つて市内の巡邏、及び外国人 居留地の守衛を兼掌せしめき。是れを維新後に於ける大阪警察制度の嚆矢 とす。当時国家多難、兵馬擾乱に際し、簿冊の如き、其の多くは焼失散乱 して、之れを徴考すとも、信憑するに足るべきものなきを以つて、多くは 旧官吏を採用し、是等の私記と口碑とに仍りて事をなしゝもの、亦、尠し とせず。而して其の施政に当りては、当局者は、非常の英断を以つてせし が、警察法の如きは、甚しく省みられざりし者の如く、戦後人民いまだ前 途不安の思ひをなし、且、浪人其他の乱暴狼藉者の町中に横行し、悪漢強                  ぎょうぎょう 盗等の出没、間断なきを以つて、民心恟々、生命財産の安固に一層不安の 念を高めき。此の時浪花隊は、市中鎮撫の任に当たれども、其の名ありて、 其の実なく、依然混沌たる状態を脱するを得ざりき。 是れより先、政府は、京都に太政官を置きて、政令を布き、司法上に於い ては、東西両京に弾正台を設け、又、全国中の要所に其の出張所を置き、                           あたかも 以つて、旧幕の残徒、その他全国の一般を偵邏せしむる、恰、旧幕府に於 ける江戸及び大阪の町奉行附遠国役の如し。 当所の出張所は過書町の旧銅座屋敷、即、今の東区今橋通西にありて、長 官一名、大小巡察各二名、これに出張し、以つて町中の偵邏逮捕の任に当 りき。 而して当時維新の際に属して、政府施政の方針、尚いまだ一定せず、司法 上の如き、亦、動もすれば各国その途を異にするものありしを以つて、之 れが執行に際し、往々政府の方針と矛盾するものあり、為に両者の間に軋 轢を生ぜしことありしが、漸にして、旧幕の残徒等、その跡を絶ち、又、 政府施政の方針定まると共に、弾正台の如き、自然廃止せられ、全く地方 行政の一部に帰したりき。 当時、本営は、鎮台裁判所の時代を過ぎて、既に元年五月二日を以つて、 大阪府庁となり、後、幾干もなくして、戦乱全く平らぎ、市民、稍、その                      おさ          こっ 堵に就きしが狼藉者の徘徊する者、いまだ全くまず、警邏の事一日も忽 しょ 諸に付すべからざるを以つて、明治三年八月に至り、浪花隊を解隊すと同 時に、府に聴訴掛、及び断獄掛を設けて、民刑事務を執らしめ、多く旧与 力を以つて、之れに任じ、其の下に捕亡掛を設けて、亦、旧同心等を以つ て、之れに充て、同九月四日に至り、又、捕亡掛四十名を選挙し、東西南 北に左の出張所を置き、昼夜市中を警邏せしめき。   東 安土町二丁目          鳶田   西 瓢箪町(今の新町通)      道頓堀   南 油町(今の長堀橋筋)      天王寺   北 十町目(今の天神橋筋)     天満


「史料紹介・大坂城玉造口定番組与力久松家文書」 その37


『大阪府誌 警察史』目次/その56/その58

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