『旧幕府 2巻第10号』(冨山房雑誌部) 1898.10 より
夫より西国長崎・薩州辺へも遊学に往くか、其節餞別に国光とかの拵刀を平八郎へ遣し *1、格別に思い込て居し様子にて、発乱以前に西国より帰坂して、再ひ平八郎方へ来り居りしが、隠謀の事を竊に語りし処、兵太 甚だ不得心にて、種々諌争せしを見て、一塾に閉込置て、昼夜番人を付、外へ出られぬ様に為せし故、兵太も必死を覚悟にて、供に連れたる僕に云付て、透間を見て竊に国へ帰て此事を告よとて、夫々子細を認めたる文を渡し、死を免れさることを書て、姉の方へ暇乞の文を遣わしたるか 此兵太は生れぬ先に姉へ聟養子して、其後に此兵太出生の由なり。夫故か 姉へ暇乞の文を遣すなり
丁度発起の前日頃にや、其僕 伏見にて捕へられて大坂へ引戻になり、其兵太が文を奉行所へ取上になりて、其写といふものを貞も一覧せしか、甚 哀れに気の毒なる事なり。
扨 十九日の暁天に、又兵太を呼出し、弥 隠謀発起すへし、是非荷担あるへき由を、平八郎申勧めけれ共、更に承引せす。
一命を捨ても荷担なり難きよしにて、兵太も種々利害を解て、諌争して其座を立て、小用に行を、平八郎門人の大井到一郎へ申付て、小用所にて殺害せしか、其所にても少しも騒かす、
如何様、姉への文にもかくかくの隠謀、荷担を勧められ、迚も存命は叶間敷候得共、家の為、兄弟の為を存して一命を捨ても荷担は致さす。其処を安堵致し呉候様に、との主意あり。此人は実に無望の禍を蒙りし人なり、惜哉。
或人此人の事を評して、迚もケ様の隠謀を話し掛られては承引せぬは、一命を取らるゝことは固より知れたることなれば、陽て承引して、扨 発起の端所にて、平八郎の油断を見て、平八郎を討取、其首持て訴出たらは一廉の功名ともなることを、いつ迄も埒の明ぬことを諌争して、犬死を為したるは惜きことなりといふものあれ共、貞は此人の処置には斯ありて当然と思ふなり。
最初に平八郎の学術を見損したるは此人の不運にて、一端 師弟の約を為したるからは、斯有へき事也。
子路が衛の難に死したるも、其死したるをあしゝとは孔子も宣はす。
衛へ仕たる最初の君の取所かあしゝと宣ひし。
一端 君と仰き、臣となりては、其難に死するは当然たるへし。
此兵太も彦根侯の禄を一粒にても賜りて、今日仕へ奉る士ならは、又 君恩の重き所もあるへけれと、此人は次男にて、未た仕をせす。終身何れの藩にあるへき身とも知れず。且 今日人倫の道を教示せらるゝ師弟の約を為して、仁義忠孝の道を説中にて、仮初にも偽をもつて屈服して承引したらは、平八郎を初、其他の人々迄真実に承引したりと思ふへく、然らは暫時にても隠謀の荷担人也。其上 平八郎の油断を見て首を打とりたらは、危斗中の幸にてまたしもなり。
若 透間なくして討こと延引するか、または討損して、路頭にて反て人に討れたらは、一端の偽にて荷但を承引せし偽は、いつか真の荷担となりて、其虚実は誰か分くへき。
真の荷担とならは、其罪 兄弟迄も及ふへく、家の耻辱ともなるへし。かゝる詭過の術は、君子の道にはあらざるべし。
註 *1 『塩逆述 巻7上』「坂本鉉之助よりノ書」では、「友成と(云)壱腰平八郎より為餞別申候趣」となっています。