島本仲道編 今橋巌 1887刊 より
高井山城守殊に其能を愛し告るに、之を江戸に薦ん事を以てしたりと雖とも応ぜず、
小人唯公の知遇に感じ、身を禍福利害の外に措て努力するのみ、敢て他に求る所あらざるなり
と称して終に之を辞す、
尋で其歳七月高井山城守年七十、吏務に堪えざるを以て、上書して老を告んとするや、平八郎も亦山城守に先だつて職を辞せり、聞く者驚惜せざるなし、辞職の前、数日招隠の詩を作る、其の詩に曰く、
湖上煙波好正帰。
無功釣漁亦応非
頼佐吾公済時効。
今秋共製荷衣。
而して詩に繋(カク)るに序を以てしたり、其中に曰く、
余齢則三十有七
職則微賎、
而言聴計従、
関大政、
除衙蠹鋤民害、
規僧風、
豈非千歳之一遇乎、
而公之進退乃如此、
義不得不共棄職以招隠、
云々
と
藹々たる良言、以て其志を見るべきなり、
頼山陽の之を論ずる言に曰く、
非然不足以為子起也、
衆望翕属時脱去権勢、
毫無顧恋哉、
唯然、故当其任用、
呵斥請託鞭撻苞苴、
凛然使望之者如寒氷烈日、
以得為其功、爾故観子起、
不於其敏、而於其廡、
不於其精勤、而於其勇退、
と宜なりと謂ふべし、