Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.12.4訂正
2000.8.10

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「浮世の有様 巻四」

◇禁転載◇

文政十二年大塩の功業 その2

 
 
 
 





当所に限らず寺院の住僧不行状なる事は、能く世間にても知りぬる事なるに、近来猿共の狩尽されしにて、其罪明白に知れぬれども、寺院残らず斯くの如くなる事故、一々に之を罪する時は、天下に坊主種の尽きて、差当り葬等に差支へぬる故、しばしが程は其儘に捨置かれしが、丑の十二月十日御触書出づる。其文に曰く、

右の御触に驚き、にわかに梵妻に暇を遣はせし寺もあり。又京都其外しるベのある方へ、女を預けぬるもあり。

 
 











中には只一通り触流しの様に心得て、これを頓著する事なく、相変わらず不埒なるもありて、一々に其罪を糺す時は、其行状正しき僧は、大坂中にて二三ケ寺ならではなき事故、悉く是を召捕る時は、葬礼に事欠けぬる故、右御触出でし後に不埒なる寺々六十ケ寺計り、篤と其罪を聞糺し置きて、夜中密に大塩の宅に召寄せ、一々罪の次第相記せし封書を夫々へ相渡し、「急度御糺仰付られ候筈の処、憐愍を以て其罪を是に記せり。若し申開く筋あらば承るベし」とありしにぞ、

次へ下り、何れも之を開き見るに、銘々身に覚えある事、委しく書記し有りぬるにぞ、何れも一言の申訳なく、一統に「恐入りし旨」申出づるにぞ、

「さあるベき事なり。何れも其罪軽からずと雖も、此度憐愍を以て免るし遣るベし。若し又此後、聊にても心得違ひ不埒の事あるに於ては、厳科に行ふベし能く\/心得よ」とて之を許し帰されしにぞ、何れも虎口を逃れたる心地にて引取しとぞ。

 







 







斯くても尚行状を改る事なき寺々を、冬より春へかけて三十余ケ寺召捕になりしが、其後に至りても追追に捕へらるゝ者ありて、数十人に及ぶといへり。中にも尤甚しきは、

一心寺 これは天王寺の南なり。遠金屋みつといへる茶屋の娘を妾となし、己れ茶屋をなす。是さへ甚しきに、其寺内に住める花屋の娘の、外方へ幼年より子に遣せしに、先方にて大に之を寵愛し、今は成人しぬれば、其子に妻(めあ)はせんと思ひぬるに、下賤の者の習いとて、俄に其娘を取戻したくなりしかば、娘に篤と実親より申含め、これを諾ふ事なからしめ、先方へ引合ひ返し呉れぬるやうにといひぬれども、幼年より子に貰ひ、今成人に及び物に用立つ様になりて、取返さむといへるは不埒なる申分なりとて、之を返す事なかりしかば、此事一心寺に咄しぬるにぞ、之を取戻しやらむとて、先方へ一心寺が挨拶せしにぞ、先方には親仕方を憤りぬれども、出家の挨拶に免じて之を免(ゆる)し、其娘を一心寺へ渡せしに、直に寺に連かへり、これをも己が妾となし、寺に隠し置きて実親にも返さずといふ。其余姦悪の事尚多しといへり。斯様の事、一々公に聞へぬる事なれば、捕手を遣されしに、其様子を見ると其儘、右の女を連れて裏の藪をくゞり逃げ去りしが、京都へ登り勧修寺殿へかけ込、附髪をなし藤島将監と名乗り、右の女を連れて夜店見物に出でしを見付られて、両人とも召捕られしが、勧修寺殿御内藤島将監へ対し、無礼なりなどいひて大に断はりしが、附髪を引取られて繩を掛られしといふ。誠に重罪の奴なり。

曼陀羅院 生玉馬場先の揚屋寺富といへる方の娘を妻とし、己れ年来茶屋なしてありしが、女子一人を儲く。此娘に其茶屋を譲り、夫婦連にて高津へ隠宅を構へ、鳥屋を始め鶩(あひる)・鶏の類、買に来れる者あれば、出家の身分にて鳥をしめ殺して商ひぬ。至罪といふベし。

円頓寺 北野村にて法華宗なり。此寺無檀地なるに、堂島の相場屋河内屋善兵衛といへる者、代々此寺を信じ、此寺河内屋にて相続すといへり。然るに当時の善兵衛母 年五十計りといふ。 年来姦淫し、是迄寺の立行く程の世話をなして貰ひぬるうへに、此母よりも是迄数百金の金を取入れぬといふ。近き頃善兵衛方にて金子百五十両紛失しで知れざる事あり。外より賊の入し体にてなければ、内々召遣へる者共に疑をかけ、大金の事なれば捨置き難く、其旨上へ届け出でぬ。間なく円頓寺召捕られ、後家も入牢せしに、御吟味にて後家より盗出し、此坊主に遣りし事明白なるにぞ、邪淫の上斯かるあり。後家も斯かる悪事を重ねぬる上、公儀迄もたばかりし罪甚しといへり。

善通寺 北野村不動寺の西隣にて禅宗なり。近所に寺の貸家ありて、これを支配させぬる者の妻と姦通し、其余不埒の事多しといふ。其女は則ち同寺門前なる酒屋の娘なり。

金台寺 寺号の文字如何書ける事や知らざる事多し。故に其違へるを怪しむ事なかれ。慥に此寺の事のやうに覚ゆ。梵妻に茶屋をなさしめ、娘を芸妓に出し、息子を肴屋になし、不行状の事甚しといへり。

谷町筋の南に、天正寺 これも文字如何書ける事にやしらず。医師北山寿庵が墓の不動明王ある寺なり。の南へ筋向ひの寺の由、予に咄せる人も其寺号を忘れしといへるが、此寺の住持も梵妻の事ある故、之を召捕らむとて捕手向ひしに、折節近辺所々の住持共大勢集りて、酒肉取散らし博奕をなして有る所にて、何れも大うろたへなりしが、悉く召捕られしといふ。捕手も存寄らぬ事故に、大に驚きし程の事なりしといへり。

建国寺 天満川崎禅宗なり。一たん出奔せしが、格別の事あるまじと思ひしや、帰り来りて召捕らる。これに先達て梵妻・子供など入牢す。これに限らず梵妻・梵子は何れも召捕られ悉く入牢なり。

慈光寺 北野村大融寺の東にて尼寺なり。此住持大工と姦通し子二人生むといふ。召捕られ入牢せしが、五月二日より高麗橋詰にて三日晒され、大坂三郷御払となる。

慈安寺 道頓堀の南千日にあり。法華宗なり。是も梵妻の事に住持・老僧両人共に召捕られ入牢す。これを御吟味ありしに、「私の堕落せしは近頃の事にて、これは御破損奉行飯島惣左衛門殿の所為なり」といへるにぞ、其訳を御尋ありしに、「元来此寺の祠堂金三百両、御破損奉行飯島惣左衛門・一場藤兵衛・池田新兵衛三人連印にて借り受けしが、其金を貸したる故に、新町の揚屋より飯島、慈安寺を招き馳走をなし、其上にて無理に肉を喰はせ遊女を与へし」となり。これに依つて拠なく堕落させられしといふ。斯くて期日に至り、「其金返す給はれと雖も、返す金なしとて一切頓著せざるにぞ、大に困り果て、右の金は檀家より当寺普請の手当に納めありしを、私の了簡計りにて用立ぬるに、此節普請入用ありとて種々嘆き出でしかば、いかにいふとも返す金 聊もなし。強ひて取りたく思はゞ公儀へ願ひ出づベし。此方よりも其方が堕落せし事を申すベしと、法外の事申さるゝにぞ、詮方なく胸をさすり怺へしが、今以て其金其儘に捨置かるゝ」といへり。此金も一場・池田等連印なれども、飯島一人之を取込み遣はれしといふ。此事慈安寺白状に及びぬるに、外にも何か善からぬ事あつて、飯島・市場両人は網乗物にて江戸へ召され、飯島は病死、市場は切腹せしなどと風聞あり。池田も後より召されしが、これは如何なりしや知らず。〔頭書〕尼僧一人日本橋の南詰にて晒さる。専ら一心寺の妾なりし由をいひしが、別の者なりしといふ、されども其くはしき事を知らず。

満願寺 当国多田より北野大融寺へ出開帳にて来りしが、折節御蔭参始りし故、之を見向く者も更になし。此住持、中山寺の麓なる柳屋の娘を小性に仕立連来り居しが、此事露顕に及びしかば、此娘を南都の方へ隠しぬ。然るに是にても隠し置き難き由申来りしとて、密に南都へ行きて其娘を受取、京都の知辺(しるベ)に之を預けむと志し、行ぬる道にして捕へられ、両人とも入牢せしとなり。

大融寺 北野村、女犯にて入牢。

不動寺隠居 右は前にいへる如く、門前にて梵妻と一処に居て、遊女を抱へ置屋をなせしが、吉五郎に頼まれしより事より顕はれ、入牢々死。

幡龍寺・長久寺・法海寺・法心寺 此等は皆牢死の由、宗光寺は此様子を聞くと其儘、寺を売つて逃れしといふ。西福寺・藤井寺・本伝寺・良光寺等は出奔して行衛知れず。上方寺も暫く影を隠しぬ。大教寺・円通院も御咎を蒙り、北浜村松林寺も同断の由、天満寺町にて旧悪はあれども、当時老僧にて拠なく無事なりし故、御咎受くる事なかりしは、蓮華寺・法聚院の二ケ寺のみなりといへり。小橋上寺町・中寺町・下寺町にても、一統の様に取沙汰はあれども、其委しき事を知らず。予が聞ける所、当地に於て斯くの如し。当四月下旬千日に於て獄門に掛りし僧あり。其寺号を知らず。是は人の妻と不義をなし、其妻より金を盗み出させしといふ。追々其罪定まり多くは流罪となりぬ。

河内屋善兵衛の後家は、御連憐愍にて晒さるゝ事なく三郷払となりぬ。〔頭書〕日本大龍寺・浦江正閑寺等女犯堕落の事あり。北野天心庵 も女犯にはあらざれども、此掛りにて咎めらる。正閑寺は牢死、大龍寺は流罪となる。

 
 







京都にても、大坂の御仕置響き渡りて、妙心寺・本国寺・本能寺・智恩院・黒谷南禅寺等にて多く召捕られ、流罪となりし者大勢あり。東福寺に最も数多くありし由なれども、是は風をくらひて大方出奔せしといふ。本願寺にても召捕られしといふ。此宗門は肉食妻帯をなす宗旨なるに、召捕られぬるはよく\/不埒の事なるベし。

智恩院寺中の住持、三條橋詰にて晒されし上にて、「寺法通に行ふベし」とて、本山へ御渡しになりぬるを受取り、これ丸裸になし下帯迄も取払ひ、干かます一尾是が口に銜(くは)へさせ、坊主両人割木を持、本堂のぐるりを三遍四つ這ひに這はせ、行止まれば竹にて叩き、立たむとすればこれを叩き、銜へしかますを取落し、手にて取つて口に食はむとすれば其腕を叩き、取落せるも口にて之を銜へ取る事なりとぞ。斯くて後、門前迄四つ這に這うはせ行き、是が腰繩を解きて叩払にせしといふ。折節大坂より上り、智恩院へ参詣してこれを見し者、精しく語りぬるを聞けり。

 
 







近来至つて人気も悪しく成り、世間大に行詰り姦悪の輩多かりしに、一々其者共の刑せられ、剰(あまつさ)へ国初已来潜み隠れて行ひし切支丹の根葉もなく刈尽し給ひ、又邪法姦悪の僧侶迄、皆其罪に行れて、万民太平を唱へぬる有難き御代なりき。

斯くて御町奉行高井山城守殿には、七十に近き老年の上、近頃病に罹りぬるにぞ、江戸に於て療養致したしとて、其旨願ひ出でられしに、早速に御聞届あつて、「勝手に引取心任せに養生をなし、全快の上再び上りて勤め申すベき由」と、是まで先例になき有難き台命を蒙り、首尾至て宜しき事なりといふ。八月下旬大坂を発駕ありしにぞ、

 
 





大塩平八郎も未だ初老にも至らざれども、病身を申立て隠居をなす。諸人之を惜みあへり。功なり名遂げて身退きしは、能き心得にして天道に叶ひぬるといふベし。  



 




此余尚種々の噂を聞ける事もあれども、余りくだ\/しければこれを略する者なり。〔頭書〕大塩の功大なりと雖も、諸人大塩のみを称して高井君を称するに至らず、大塩も功を高井君に帰せば、却つて奥床しく思はるゝ事なるに、士功あれば之を大夫に帰し、大夫功あれば之を諸侯に帰し、諸侯功あれば之を天子に帰すの本文に背けり、惜いかな。  




     


「文政十二年大塩の功業」 その1
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