横渠先生曰。「人多
言 安 於貧賤 。其
実只是計窮、力屈才
短、不 能 営画 耳。
若稍動得、恐未 肯
安 之。須 是誠知
義理之楽 於利欲 也
乃能 。」是可 謂
洞 見仮道学者之情
矣。而味 動字 、物
触 乎我所 嗜与 我
所 餒、則以 固非
虚体 、為 之所 動、
而淪溺亦為 塵俗 、
自 古至 今、其人不
少。故吾輩宜 真楽
義理 、以実 忘 利
欲 矣。否則未 可
知 動者到 乎前 、
而安 貧賤 其自若
焉 也。
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横渠先生は言はれた。
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『人、多くは貧賤に安んずと言へど、其の実、たゞ是れ、
はかりごと きは ○ ○ ○ ○たらざ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
計 窮まり、力屈し、才短るが為に、其の富貴営達を致すべ
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き事業を企画経営し得ざるのみである。若しやゝ動くを得ん
○ ○ ○ ○ ○あへ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
には、恐くは肯て之に安んじ得ぬであらう。然らば、是は、
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
誠に義理の利欲より楽しきを知れるの能では無い。』と。
えせ
此の語、世の仮道学者の情を洞見し得て切実なるものがあ
る。殊に其の「動く」の字、頗る味深きを覚ゆる。世の貧賤
す
に安んずと言ふものも、一たび外物の我が嗜む所、我が餒ゆ
る所に触るゝあらば、本来、虚体ならぬ身の是非なさ、終に
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其の物の為に動かされて、忽ち塵俗に淪溺して了ふ。斯様な
とぼ
例は、古より今に至るまで、其の人に少しからずである。
されば、吾党の学人、真に義理を楽しみ、実に利欲を忘るゝ
しから ・・・・・
の人たらんことを期せんければならぬ。否ずは、常は貧賤に
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安んずと言ひつゝも、なほ一たび、誘惑物の己が前に来るあ
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らば、それが為に心動かされて、自若として貧賤に安んじ得
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ぬことゝなるかも知れぬ。
然り然り。今の世斯の如き仮道学者の頗る多きを思ふ。
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『洗心洞箚記』
(本文)その182
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