Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.2.22

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大塩の乱関係論文集目次


『維新革命前夜物語(抄)』
その12

白柳秀湖 (1884-1950)
千倉書房 1934 より

◇禁転載◇


第十三章 天保の大飢饉、都市ブルヂヨア豪華の巻

一二四
 大塩中斎の挙兵一件で知られる
  国民社会意識の進展

 甲府町を引揚げた一揆は、鉦(かね)、太鼓を打鳴らして、所在の村々町々を襲ひ、北山筋、中郡辺 を荒らし廻つて、人数はいよ\/加はるばかりであつたが、代官西村貞太郎、山口鉄太郎、井上重左衛門など手附、手代を繰出して追捕に従ひ、諏訪伊勢守からも、人数が出て、やつと鎮撫の功を奏することが出来た。この騒動で、縛に就いたものが百七十余人、その余はちり\/ばら\/となつて行方しれずになつてしまつたとあるが、これは深く詮議立をすることが出来なかつたものに相違ない。

 又、即死、負傷者はいづくのものとも知れ難しといふ名目で、どし\/仮埋葬に附してしまつた。これも深く詮議立てして居れば、それからそれへと犯人が出て、村々が全滅にも及ぶので、どし\/埋めてしまつたものであらう。また一揆の携帯してゐた凶器の類で、差押さへたものは、刀脇差六十四振、鉄砲一挺、斧五挺、甲二つ、太鼓一つ、鐃鉢(ねうばち)三つ、十手の類十と報告せられた。

 一揆の起つた原因とも見るべきものは、都留郡といふところは、元来水田が少く、八代、山梨、巨摩の三郡及び、武蔵国八王子辺から甲州上之宿へ移入される米穀によつて給養の途を立てゝ来た。しかるに、今年は凶作にて、収穫が殆ど皆無であつたから、さらぬだに困つてゐた都留郡八十余ケ村の百姓達はいやが上にも難渋した。しかるに、在々所々の土豪ども、一般の困窮を顧慮すればこそ、飢饉の声をきくと、直に右の米を買占めて貯蔵し、倉庫の戸を固くとざして自衛の途を講じたのであつた。

 事件はそこから爆発した。

 甲府勤番支配永見伊予守以下、責任者の処罰せられたことはもちろんであつたが、一揆側でも頭目四人は磔、九人は死罪、その他遠流(おんる)三十八人、重追放八人、入墨中追放一人、中追放五人、江戸十里四方追放一人、所払二十三人、入墨重敲(ぢうたゝき)二人、入墨敲三十九人、敲三十人、手錠六十四人、過料百ニ十九人、その他村々の名主、主なる百姓、組頭に至るまでそれ\゛/罪の軽重に従つて申渡しがあつた。

 この大騒動があつた翌年の二月十九日には、大阪に町奉行組の元与力、大塩平八郎の挙兵があつて、その変報が日本国中を震撼させた。これは詳しく紹介するまでもない、あまりに著名な事実であり、書いたものも、沢山にある事故、こゝには省略することゝする。

 たゞ、大塩平八郎の挙兵について、われ\/の明かに見取ることの出来るのは、かうした変乱が著しく社会性を帯びて来て居ることである。もちろん、何時(いつ)の世の変乱でもよくしらべて見れば、社会的の理由が潜伏して居るのであるが、当事者その人の意識にさういふことは上つて居ない。しかるに大塩平八郎あたりの挙兵となると、その檄文に堂々と、社会的の理由を明示して居る。一方で細民が食に窮して、行き斃れに斃れ死んで行きつゝある時、他の一方では蔵元、掛屋など呼ぶ特殊商人どもが、飢饉故に不当の利益を占め、日夜茶屋酒に浸つて、いはゆる膏梁(かうれう)の味にあき、贅沢の仕方に窮して居る。しかるに官はこれに対して、何ら救済の法をも講ずることが出来ないのみか、賄路を貪り、驕奢に耽り、領内の百姓に過分の用金を課することのみを能事として居る。かやうな世の中は何とかしなければならぬ。彼は明かに富豪を呪つて居る。富豪を肥らせるばかりで、他に何等の策も立てることの出来ぬ政府官人の無能を呪つてゐる。

 天保の大飢饉に際して、町の大学者、荻生徂徠の制度論がさま\゛/な形で蘇生して来てゐることは注意すべきだ。現に行はれて居る制度、これは何とかしなければならぬ。このまゝにして置けば、武士も百姓も上下ひとしく疲弊してしまつて、たゞひとり町人の中の極めて少数のものだけがいや肥りに肥つて行く。これは何とかせねばならぬという考へが心あるものゝ頭にはつきりと浮かんで来た。


大塩「檄文
白柳秀湖「天保の凶荒、大塩平八郎


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