Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.8.13訂正
2002.3.1

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大塩の乱関係論文集目次


『維新革命前夜物語(抄)』
その13

白柳秀湖 (1884-1950)
千倉書房 1934 より

◇禁転載◇


第十三章 天保の大飢饉、都市ブルヂヨア豪華の巻

一二五
 江戸高輪の仙波太郎兵衛
  越後米買占に手を廻す事

 大塩平八郎の騒動で、人心が尖りきつて居るところヘ、こんどは越後の柏崎に、生田万(よろず)といふ国学者の領主松平越中守の陣屋襲撃事件が起つた。さらぬだに大阪の一件でどこかにその一味徒党が潜伏して居て事を挙げるのではないかといふやうな予感で、全国民の神経がまるで近頃の大衆作家が原稿紙にむかつた時のやうに、鋭敏になつて居るところへ、果して越後の柏崎に同じやうな騒動が起つた。それは天保八年五月三十日の夜から八月一日の朝にかけてのことで、大塩平八郎の一件からわづかに四カ月目であつた。

 生田万はもと上州館林の城主、松平斉厚(なりあつ)に仕へた生田信勝といふものゝ長子で、享和元年の出生、幼名を雄といひ、長じて万と改めた。父信勝は、藩の大扈従頭(おほこしようがしら)まで進み、百三十右の禄を食(は)んで居たといふから、中途、館林家に召抱へられた生田家の分限からいへば破格の出世であつた。万は幼少の時から情にもろく、物事に激し易い性質で、詩歌文章の道には頗る堪能であつた。初め家祖正健の書きのこした『大中経』といふ稿本を読んで陽明学に傾いたりしたこともあつたが、翠園大人、大江勝義に就いて和歌を学ぶに及び、大に国学に興味を持ち、その師を介して加茂真淵、本居宣長に入り、遂に平田篤胤の書に接するに及んで、尊王敬神の大義に化せられ、ひそかに志を京都の朝廷に寄せるやうになつた。

 文政七年には万も二十四歳の春を迎へた。かねての志であつたものと見え、父のゆるしを得て江戸に出で、平田篤胤の門に学んだ。文政十年には学成つて一たび錦を故郷に飾つたが、江戸遊学以来、いやが上に昂(たかぶ)つて来た矯激の情は遂に彼に禍ひして藩を逐はれることとなり、 それから転々流浪して越後の柏崎に草鞋をぬいだのは、天保七年五月十四日のことであつた。それは彼が江戸に遊学中、平田篤胤の塾で、兄弟のやうに親しんだ、同地諏訪神社の神職、樋口出羽に招請されたからであつた。この時彼は三十六歳であつた。

 この行、彼は樋口出羽の家に滞在すること二三十日にして、一且その浪居を構へてゐた野州の太田にかへつたが、九月には妻子を引きつれ、当分は腰を落ちつけるつもりで柏崎に徒(うつ)つた。いふまでもなく、前の滞在で、彼に私淑する多くの学徒を得たからであつた。彼は柏崎の山田小路といふところに家を借り、その塾を桜園(おうえん)と号して、若いものに和歌国学を授けることゝなつた。

 しかし、この時はいはゆる天保の大飢饉が、その絶頂に達した時で、柏崎地方も飢ゑて路に倒れるものが日に\/その数を加え、惨状は実に目もあてられぬ有様であつた。

 この頃、江戸の高輪に仙波太郎兵衛という豪家があつて多くの牛を飼い、府内の運送を一手に引きうけるやうないきほひで、大へんな身上であつた。著者は明治の末、ちよつと、伊皿子(いさらご)に住んでゐたことがあつて、仙波の跡などもよく知つてゐる。『仙波の牛』といへば、その頃まで古老がよく口にしたものである。その仙波が、手代五人に十万両といふ莫大もない金を持たせて、越後米を買出しによこしたといふ噂がぱつと柏崎地方にひろがつた。果して仙波が十万両の金で買占めをしたか、どうか、それはよく分らぬが、さういう噂がぱつとひろがつた。もとより火のないところに煙は揚らぬ道理で、どこの倉庫にも一粒もないやうに見えた米が、金次第で幾らでも出て来る。それにつけてはいふまでもなく、郡奉行あたりのわるい噂も伝はる。

 それかあらぬか、柏崎地方の米価は、その頃から更に暴(にわ)かに騰貴して、四月下旬になると十両に六俵八分という前代未聞の高価を呼ぶやうになつた。


横山健堂「大塩平八郎と生田万
川崎紫山「矢部駿州」その16


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