Я[大塩の乱 資料館]Я
1999.11.28/2003.9.1修正

玄関へ

大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 乱」その3

『大阪市史 第2巻』(大阪市 1914、1927再版) より

◇禁転載◇



改行を適宜加えています。

一、挙兵の決心と準備 (3)


同
志
の
糾
合


平八郎挙兵の決意は何月にあるやを明にせずと雖も、同志糾合・兵器蒐集、弾薬調合・人夫召集・檄文印刷等の諸準備は、九月以後にありしが如し。
評定所吟味伺書吉見九郎右衛門ノ條によるに、十月初旬平八郎九郎右衛門を招きて自己の決心を告げ、町奉行跡部良弼を誅し、火を大阪城其他諸官衙及民家に放ち、金銀米銭を散じ、其後甲山に據りて後図を為さんとすと語り、檄文の草按を示して同意を勧誘し、東組与力瀬田済之助・小泉淵次郎・同心平山助次郎・渡辺良左衛門・庄司義左衛門・近藤梶五郎○同心近藤鍋五郎男河合郷左衛門○同心河合善太夫男河州守口町質屋白井孝右衛門・摂州般若寺村○東成郡清水村大字般若寺庄屋橋本忠兵衛等の既に同心せる旨を言ひ、九郎右衛門之に同心せりとあれば、同志の糾合は九月に其端を発したるなるべし。
然れども本文中平八郎大阪城を焼き、甲山に拠守するの意を示したりといふは頗る疑ふべし。
与党の人員より推すも、準備の兵器弾薬より推すも、城楼を破壊し、要所を守るに足るもの無きを以てなり。
已にして大井正一郎○玉造口定番組与力大井伝次兵衛男竹上万太郎○弓奉行上田五兵衛組同心 吹田村西ノ宮神職宮脇志摩○平八郎叔父門真三番村○北河内郡門真村大字門真茨田郡次・同村高橋九右衛門・尊延寺村○同郡氷室村大字尊延寺 深尾才次郎・弓削村○南河内郡志紀村大字弓削西村利三郎○一に七右衛門といふ、般若寺村柏岡源右衛門・同村柏岡伝七・猪飼野村木村司馬之助・森小路村医師横山文哉等皆之に党し、時々大塩邸内に会して謀議を凝せり。

    評定所吟味伺書(吉見九郎右衛門ノ條)同人密訴、
 

兵
器
の
準
備

火薬砲弾の製造大砲其他武器の準備は、最も必要にして又最も人目を惹き易し。
是より先き大塩格之助中嶋流砲術を玉造口定番組同心藤重良左衛門亡父孫三郎に学び、良左衛門と相弟子たり。
仍て砲術練習に託し、九月良左衛門を招き塾生河合八十次郎○郷左衛門男吉見英太郎○九郎右衛門男等をして其門に入らしめ、明春を待ちて丁打を行はんと声言し、瀬田済之助・小泉淵次郎・八十次郎・英太郎等をして火薬棒火矢の製造に著手せしめ、製法に秘密ありと称し、製造場に鎖鑰を施し、外人の出入を許さず。
北木幡町大工作兵衛を邸内に招き、棒火矢に使用すべき長さ六尺直径二寸許の棒二十本、長さ三尺のもの十本を作らしめ、更に之を各々長さ二尺四五寸に断たしめ、火薬の原料たる硫黄硝石は、十月以来庄司義左衛門に命じ、南本町二丁目基兵衛より購入せしめたり。
大砲は同志白井孝右衛門の伐採したる松材を取寄せて之を製作し、○堺筋淡路町に遺棄したる口径四寸許なる木砲二門、及大塩邸内に在りし破損せる一門は、此時製作のものなるべし、瀬田済之助に命じ、同組与力由比彦之進及堺桜町鉄砲鍛冶芝辻長左衛門所有の百目筒各々一挺を借入れしめ、両人より返却を求むるも言を左右に託して返さず、又平八郎自ら高槻藩士柘植牛兵衛に切望して、其所蔵せる百目筒を刀剣画幅と交換せり。
砲車三台○一台は幅二尺長さ三尺、二台は幅一尺八寸長さ四尺、は十二月に至り九郎右衛門郷左衛門二人、石材運搬用と号して天満今井町仁兵衛外二名に調製を命じ、成るに及びて大塩方に送らしめ、旌旗・提灯・草鞋等は孝右衛門之が調達を掌りぬ。

    評定所吟味伺書(吉見九郎右衛門・庄司義左衛門・孝右衛門・作兵衛ノ條)、
 

鬻
書
賑
恤

天保七年九月より翌八年正月に亙り、挙兵の準備は著々として進行せりと雖も事を挙ぐるに臨み、下民の之に同情して其進退に便宜を与ふるを要す。
是に於てか鬻書の事あり。
即ち平八郎多年蓄積所蔵せる典籍○兵庫西出町柴屋長太夫、天保三年以後書籍購入の資として、平八郎に金二百両銀十二貫目余を貸与せり、全部を挙げて、北久太郎町四丁目書肆河内屋喜兵衛等四人に売却して六百二十両を得、書林四名の名を以て、平八郎鬻書賑恤の次第を書したる切手を市在に配布し、二月上旬安堂寺町五丁目本屋会所に於て、切手引替に一人一朱宛一万人に施与すべしと告げ、数日間之を実行せり。
当時窮民に米銭を賑恤せんとせば、先づ町奉行に届出で、其許可を得ざるべからず、跡部良弼吏を遣して施行の届出無きを平八郎に詰りしに、平八郎身既に退隠せし者なれば、官許を経るを要せずと信じたる旨を述べて不注意を謝せり。

 
賑
恤
の
範
囲

良弼西町奉行堀利堅著任○伊賀守、去年十一月矢部定謙の後任を命ぜられ、本年二月二日著阪す、の際といひ、且つ施与の日を剰すこと僅に一日となれるを以て、敢て追究せざりしが、平八郎の施金は此一回を以て終りたるにあらず、爾来挙兵の日に至るまで、或は自宅に於て、或は人に託して之を行ひ、其都度若し天満方面に出火あらば必ず大塩邸に参集すべき旨を伝へ、かくて平八郎の恩恵に浴したる者合計一万余人に及び、其賑給の範囲は市内并に摂河両国六郡三十三町村に跨りたれども、郡部に於ては東成郡茨田郡を主とし自余四郡は僅に一二町村に過ぎざりき。

    評定所吟味伺書(平山助次郎長太夫ノ條)大塩平八郎施行引札、代官根本善左衛門書取、旧惣年寄今井克復氏談話(史談会速記録)
 

人
夫
の
召
集

人夫の召集につきては、守口町孝右衛門・般若寺村忠兵衛・尊延寺村才次郎・猪飼野村司馬之助等主として之に当れり。
平八郎予め才次郎司馬之助に命じ、事起らば直に人足を率ゐて駈付くべきを以てせしが、挙兵の日当座の軍夫に宛てんが為、名を邸内の溜池埋立に託し、二月上旬より人足を使役し、般若寺村卯兵衛等四十余名をして邸内のに起臥せしめたり。
平八郎事を発するに及び、般若寺村百姓及穢多百余人は卯兵衛の催促に応じ、尊延寺村百姓数十名は才次郎之を率ゐ、猪飼野村守口町百姓百数十名は司馬之助孝右衛門の約に従ひ、其他沢上江・友淵・稗島・植松・北島・弓削等、摂河両国二十数町村の百姓百数十名、葱生(ナギフ)村の穢多若干名皆奔つて天満に赴かんとせり。
蓋し彼等は曩に平八郎の施与を受くるに当り、天満に火あらば赴援を待つとの命を領せしが為にして、四五の首謀者を除けば、其他は平八郎挙兵の事あるを知らざる者なり。
故に半途にして大阪の変を聞き、遁逃する者甚だ多く、而して平八郎が平素懐柔せる渡辺村の穢多も、亦事によりて暴動に加ること無かりき。

 
渡
辺
村
の
懐
柔

初め平八郎渡辺村人足の死力を尽して火災水害を防禦するを知り、嘗て玉造口与力坂本鉉之助に告ぐるに、一旦変あらば穢多を用ゐ、賞するに平人を以てすべし、其功を樹つる驚くべきものあらんといへり。
天保七年冬平八郎穢多小頭を招き、金五十両を与へて村内の窮民に頒たしめ、別に小頭に長脇差一口を与へ、其悦喜措かざるに乗じ、若し天満に火災起らば、町奉行所に至るに先ち、配下を率ゐて我邸に来れと命じぬ。
挙兵の前夜小頭沈酔して出火を覚えず、他の小頭人足を率ゐて町奉行所に至りし後、漸くにして醒め、残余の人足三十人許を得て、急に天満に向ひ、平八郎に難波橋に会して遅参を謝せしに、平八郎期に後れたるを怒り、大に之を罵りしかば、小頭恐れて退き、去つて町奉行所を守衛せりといふ。

    評定所吟味伺書(般若寺村百姓卯兵衛・守口町百姓清蔵外三十八人・貝脇村百姓友七外十九人・般若寺村百姓四十九人・穢多六十人・守口町百姓百六十人ノ條)、咬菜秘記、
 

策
戦

新町奉行の著任するや、同勤の町奉行と共に北組・南組・天満組を三回に巡視するを例とし、天満組にありては堂島米市場・青物市場・天満天神社・惣会所等を巡視し、与力町に至り、迎方与力の宅に休憩するを定例とす。而して新町奉行堀利堅の天満組巡見は二月十九日、休憩所は大塩邸の向側東組与力朝岡助之丞邸、休憩時刻は申刻に決せしかば、平八郎は之を機とし、先づ両奉行を一挙に砲殺し、尋いで火を市街に放ち、別に孝右衛門をして西町奉行所の東隣松江町に一室を借らしめ、其甥儀次郎を之に置き、挙兵と同時に火を放つて町奉行所捕吏の気勢を挫かんとせり。○東町奉行所に対して此計画を為さざりしは、附近に適当の民家無かりしためならん、
挙兵の日時用兵の順序既に定りしを以て、平八郎は之を同志に通じ、一味中錚々たる者は数日前より平八郎邸に会して宴を張り、檄文を配賦し、一意当日の至るを待てり。

    評定所吟味伺書(孝右衛門儀次郎ノ條)、旧惣年寄今井克復氏談話(史談会速記録)、
 


参考
堺利彦「講談大塩騒動


「大塩乱」目次/その2 /その4

大塩の乱関係論文集目次

玄関へ