Я[大塩の乱 資料館]Я
1999.12.6/2003.9.1修正

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 乱」その5

『大阪市史 第2巻』(大阪市 1914、1927再版)より

◇禁転載◇



改行を適宜加えています。

二、騒 乱(1)

 


閲
兵


瀬田済之助役所裏手の塀を越え、乱髪跣足の儘天満橋を渡り、大塩邸に至り、事露顕したるを告ぐ。
平八郎捕吏の来るに先ち事を挙げんとし、邸内に集合せる一味に出陣の準備を命じ、又卯ノ下刻急使を馳せて附近の党与を招き、門を閉ぢて党外諸人の出入を禁じ、旗幟○天照皇太神・湯武両聖王・東照大権現と書したる旗二旒・五七ノ桐に二ツ引の旗一旒、救民の二字を書したる四半一旒、を庭前に樹立し、大砲及砲車を牽出し、溜池埋立の為に数日来邸内に宿泊せる人 夫及今曉新に来集せる人夫合計七八十人を召し、平八郎自ら挙兵の理由方略を示し、一味協力すべきを諭し、戦功あらん者には賞を与ふべく、命に応ぜざる者あらば直ちに斬殺せんと威迫し、或は武器を与へ、或は長持葛篭其他必要品を擔はしめたり。
此時平八郎格之助父子及済之助は着込野袴にて白木綿の鉢巻を爲し、渡辺良左衛門・庄司義左衛門・近藤梶五郎・平八郎若党曾我岩蔵・孝右衞門・郡次・忠兵衛・伝七・源右衛門等皆着込を著し、刀を帯び、鎗鉄砲を携ヘ、浅黄真田の襷を掛けて一党の合印と爲し、殺気邸内に充満せり。

 
宇
津
木
矩
之
允
の
惨
死

平八郎の門下に宇津木矩之允○靖、字共甫、号静区 なる者あり。
彦根藩の老臣宇津木下総の弟にして、四年以前平八郎と師弟の約を結び、後長崎に遊び、一旦郷里に帰り、七年六月門生良之進○長崎西築町医師道玄男 を従へ、再び平八郎塾に入れり。
矩之允平八郎の異謀を貯ふるを察し、之を切諌せんとせしが十九日朝邸内俄に騒擾し、無用者を斬殺して軍神を祭るべしと言ふ者あるを聞き、免るべからざるを知り、自撰の碑文を良之進に附し、京師東本願寺ノ臣粟津陸奥之助に貸与せる詩稿と共に実家に持参すべきを命じ、遂に大井正一郎の殺す所と爲りき。

    旧惣年寄今井克復氏談話(史談会速記録)、評定所吟味伺書(大井正一郎・庄司義左衛門・良之進ノ條)、咬菜秘記、
 

出
陣

大井正一郎狂暴を以て聞ゆ、父伝次兵衛之を憂ひ、平八郎に託し、新塾に居らしむ。
亦党与中の一員なり。平八郎の命により矩之允を刺し、再び其命により着込を著し、鎗を携へて先鋒となり、辰ノ刻頃一行屋敷の塀を倒して大砲を牽出せり。
平八郎火を自邸に放ち朝岡助之丞屋敷及び建国寺境内東照宮を砲撃し、数旒の旌旗を翻して進み、組屋敷内所々にて大筒棒火矢を発し、砲碌玉を投じて四近を燒立て天満十丁目に至り、天満天神社を砲撃す。其間暴徒鎗刀を振ひ、狼狽せる町村民を駆りて列中に加らしめ、同勢三百人に達す、或は自ら進んで之に加り、民家に闖入して財宝酒食を強奪するあり、或は隙に乗じて逃去するあり、而して是等人夫の指揮に当りしは河内花摺村旧庄屋にして、当時洗心洞塾の賄方たりし杉山三平なり。

 
北 船 場 に 入 る

暴徒天神社より南に折れて天神橋に進みしが、南端の橋板既に撤せられて渡る可らず、乃ち再び隊を整へ、川に沿ふて西下し、難波橋を破壊せんとせる杣人足を駆逐し、午ノ上刻之を渡り、北浜二丁目に出で、今橋筋高麗橋筋に群居せる富商豪家鴻池屋善右衛門○今橋二丁目鴻池屋庄兵衛○同上等鴻池の一統、天王寺屋五兵衛○今橋一丁目平野星五兵衛○同上三井八郎右衛門○高麗橋一丁目岩城升屋等の家屋土藏に火矢砲碌玉を投じ、金銀を掠奪し、之を市民に頒たんとするも恐れて近くものなし、是より暴徒分れて二隊○今橋筋高麗橋筋放火掠奪の後、暴徒二隊に分れたりとするは、評定所吟味伺書三平ノ條による、然れども二隊に分れたるは、恐らくは掠奪以前なるベし、二隊に分れて今橋筋高麗橋筋を東上し、火を左右の豪家に放ち、橋を渡りて相会すとすれば、甚だ事理に合ヘり、となり、一隊は平八郎自ら指揮して高麗橋を渡り、一隊は今橋を渡りて共に上町に出でしが、官兵を見ず、○此時西町奉行堀利堅の一隊島町御祓筋より、高麗橋橋上の暴徒を射撃したれども、暴徒知らずして過ぐ東横堀川の東岸を南下して二隊再び合し、米屋平右衛門○内平野町二丁目宅を焼き、未ノ上刻始めて跡部良弼の先頭と衝突せり。

    代官池田岩之丞届書、評定所吟味伺書(三平大井正一郎ノ條)、
 


管理人註
  「衣摺村」が正しい。


井上哲次郎「宇津木静区


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