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平八郎の妾ユウ、格之助の妾ミネは、平八郎よりの伝言を忠兵衛より
受けたが、伝言の儘に自害するは易けれど、幼少のイク並に弓太郎の身
の落着を見届けた上で死にたいとの嘆願で、忠兵衛も流石に恩愛の情に
ほだ
絆され、其意に従つて丹州路より京都へと逃れ、其処で捕縛となつた、
平八郎の家族全体の行衛は、是で皆明らかになつた。其他一味徒党の者
の行衛も次第に知れ、最も久しく忍んで居つた大井正一郎も、遂に四月
二日、京都で召捕になつたので、四月十日、江戸には左の御触が出た。
一、当二月十九日、不容易る企におよび、大阪市中所々放火いたし、
及乱妨候大塩平八郎、大塩格之助、並に荷担いたし候者共、行衛不
相知候付、其次第人相書を以て追々触渡置候、後平八郎父子、且瀬田
済之助、渡辺良左衛門、近藤梶五郎、庄司儀左衛門は召捕、又は自滅
等いたし候間、右之者共は相尋候に不及、大井正一郎、河合郷左衛門
は無油断相尋候様、猶又触置候処、正一郎も召捕候間、最早相尋候
いよ/\
に不及、右郷左衛門は 弥 無油断相尋、都て最前相触候通可被
心得候。
此中の郷左衛門とは、九郎右衛門の密訴状を持つて西町奉行の役宅に駈
いづこ たくみ
込んだ八十次郎の父の事だ、彼は其時出奔した限り、何処へか巧に姿を
潜めたらしい。刑の申渡は、大塩平八郎父子、瀬田済之助、小泉淵次郎、
渡辺良左衛門、庄司義左衛門、近藤梶五郎、大井正一郎、白井孝右衛門、
茨田郡次、高橋郎九右衛門、橋本忠兵衛、柏岡孫右衛門、同伝七、木村
司馬之助、横山文哉、宮脇志摩、深尾才次郎、西村利三郎、以上十七名
は塩詰の死骸、三郷引廻の上磔、但し利三郎は死体腐乱に付墳墓破壊、
美吉屋五郎兵衛、杉山三平、曾我岩蔵、植松周次、浅佶、松本隣太夫、
堀井儀三郎事仁三郎、大工作兵衛、猟師金助、無宿新兵衛、忠右衛門は
引廻の上獄門、上田孝太郎、白井儀次郎、卯兵衛は死罪、大西与五郎、
白井彦右衛門、平八郎妾ユウ、五郎兵衛妻ツネは遠島、安田図書、医師
寛輔、大蓮寺隠居正方は中追放、其他多少の関係者は殆ど尽く罪を得た。
此外に竹上万太郎といふ連盟者の一人で、十九日の当日、所持の鉄砲を
はず
携へ、大塩邸に駈付乍ら、俄に臆病風に襲はれて変心し、其場を外して
我家に帰り、弓奉行上田五兵衛、鈴木次左衛門両名に宛てた訴状を認め、
懐中し乍ら所々迂路つきまはつた末に、同役吉田邦次郎に渡して其儘遁
い
げた者があつたが、それが磔に上げられた。活き身を槍で突かれたもの
は、此者一人で、其他は自害か、左も無ければ、皆牢死であつたといふ、
返り忠が返り忠に立たず、妙な処で天の配剤を受けたものだ。
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「御触」(乱発生後)
その9
「御触」(乱発生後)
その7
相蘇一弘
「大塩の乱の
関係者一覧」
その1
茨田郡次
柏岡源右衛門
十九名
が正しい
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