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予は初に平八郎挙兵の志を云つて、是は単に時の悪政に憤慨し、奸吏
ほふ こら
を屠り、豪商を懲し、民衆の威力を示して、来者を戒めんと欲するに止
かんがへ
まり、決してそれ以上に徳川氏転覆などの考は無かつたと切言したが、
更に彼の乱後に於て、それを証すべき事実が明確に現れて来た、それは
彼が如何なる手筈により、何人の力を仮りて其志を達せんとしたかの径
あきらか
路は、明でないけれども、以外にも天保八年三月、日は定かでない、ま
おほよ
だ平八郎の潜伏の時分で、大凡そ三月の十日前後の事かと思ふが、韮山
かたはら
代官江川太郎左衛門から、伊豆国塚原新田地内一里塚の傍の林の中に、
大加賀守殿(大久保忠真)脇中務少輔殿(脇阪安菫)家来中、大塩平八
したた
郎と認めた白木の凾が打壊してあり、附近に平八郎から御老中宛、水戸
殿宛、林大学頭宛の書状其他の書類が、雨露に濡れて散乱して居たとの
届書が出て居るが、其内容の詳細は不明だけれども、閣老宛のものは他
筆で、時政を論じたもの、林大学頭宛のものは自筆で、用金の収支と自
己の陳情であつたといふから、水戸の烈公に宛てたものも、固より時政
を論じたものに相違あるまい、彼が徳川氏顛覆の意思があるならば、何
を好んで其御三家の一たる水戸侯や、若くは御老中、若くは官学を司る
林家などに内密陳情の必要があらう。水戸侯は必ず江川の手より此平八
郎の密書を手に入れて、竊に一読されたに相違ない、其証拠は東湖の丁
酉(天保八年は丁酉也)日誌の四月九日の條に、『登殿無事、被*為*召、
御前へ罷出たるに、韮山へ書を遣し、大塩の密書を手に入候やう御意、
此事は、去月十四日に、韮山御代官江川太郎左衛門より我(東湖)へ一
あたふ
書を贈り、東海道にて大塩平八郎より閣老並林大学頭へ与るの書、手に
入たる中に、水戸侯へ奸賊より呈するの書一通あり、何れも容易ならざ
る事故、取計方官府へ訴たり、扨此密書ども、内々写取り、公へ呈し度
思へ共、如何の程合なるべきとの書なり、江川、実に我公の御為を存じ
候ならば、直にその密書どもを写取、我へ遣し、一覧の上、公へ呈覧す
るとも、又は返すともせよと申遣すべき筈なるに、先づ我へ聞たる上に
て密書を写し出すべしとは心得がたきなれば、我は取敢ず、奸賊の書、
内々にて水戸殿一覧いたし候筈無*之由を答へたり、其由は委細に執政
清虚子へ談じたる上にて取計ひ、明十五日、公へも言上せり、然るに奸
賊戮に就きたる事、公にも被*聞召*、今は嫌疑もあるまじきとの思召也、
さ て
又手斎藤弥九郎、去月中より江川の頼にて浪華へ赴き、近着すべし、弥
わかりさふらはん
九郎に逢たらば、江川の心中も明白に 分 候 半 と存るゆゑ、一と先づ
弥九郎へ対面の上、江川へは一書を贈るべきよし、言上せり。』とあつ
て、折角江川から親切に申越したのを、東湖は手続が悪いとて、江川の
処置を誠意の欠けた如くに考へ、其申越を拒んだが、烈公には其密書が
あふせ
見たいとて、此仰の有つたものと知れる、更に此日記の十一日の條に、
『平八郎の密書、早く御覧ぜられ度思召ける條、韮山江川へ申遣すべき
よし仰を蒙りぬ』とあれば、烈公の熱望の程も知れる、江川も親切に、
自ら内密に申出である以上は、此密書の写しを、其後必ず烈公の覧に供
したものと断ずる。
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切言
懇切にもの
をいうこと
脇坂安菫
横山健堂
「大塩平八郎」
その10
『塩逆述』
巻之七之上
その15
藤田東湖
「丁酉日録」
その17
藤田東湖
「丁酉日録」
その19
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