Я[大塩の乱 資料館]Я
2013.4.8

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「大塩の乱関係論文集」目次


『民本主義の犠牲者大塩平八郎』

その113

相馬由也

開発社 1919

◇禁転載◇

十六、叛逆か大不敬か (1) 管理人註
   

 予は初に平八郎挙兵の志を云つて、是は単に時の悪政に憤慨し、奸吏  ほふ         こら を屠り、豪商を懲し、民衆の威力を示して、来者を戒めんと欲するに止                    かんがへ まり、決してそれ以上に徳川氏転覆などの考は無かつたと切言したが、 更に彼の乱後に於て、それを証すべき事実が明確に現れて来た、それは 彼が如何なる手筈により、何人の力を仮りて其志を達せんとしたかの径    あきらか 路は、明でないけれども、以外にも天保八年三月、日は定かでない、ま             おほよ だ平八郎の潜伏の時分で、大凡そ三月の十日前後の事かと思ふが、韮山                          かたはら 代官江川太郎左衛門から、伊豆国塚原新田地内一里塚の傍の林の中に、 大加賀守殿(大久保忠真)脇中務少輔殿(脇阪安菫)家来中、大塩平八   したた 郎と認めた白木の凾が打壊してあり、附近に平八郎から御老中宛、水戸 殿宛、林大学頭宛の書状其他の書類が、雨露に濡れて散乱して居たとの 届書が出て居るが、其内容の詳細は不明だけれども、閣老宛のものは他 筆で、時政を論じたもの、林大学頭宛のものは自筆で、用金の収支と自 己の陳情であつたといふから、水戸の烈公に宛てたものも、固より時政 を論じたものに相違あるまい、彼が徳川氏顛覆の意思があるならば、何 を好んで其御三家の一たる水戸侯や、若くは御老中、若くは官学を司る 林家などに内密陳情の必要があらう。水戸侯は必ず江川の手より此平八 郎の密書を手に入れて、竊に一読されたに相違ない、其証拠は東湖の丁 酉(天保八年は丁酉也)日誌の四月九日の條に、『登殿無事、被*為*召、 御前へ罷出たるに、韮山へ書を遣し、大塩の密書を手に入候やう御意、 此事は、去月十四日に、韮山御代官江川太郎左衛門より我(東湖)へ一                          あたふ 書を贈り、東海道にて大塩平八郎より閣老並林大学頭へ与るの書、手に 入たる中に、水戸侯へ奸賊より呈するの書一通あり、何れも容易ならざ る事故、取計方官府へ訴たり、扨此密書ども、内々写取り、公へ呈し度 思へ共、如何の程合なるべきとの書なり、江川、実に我公の御為を存じ 候ならば、直にその密書どもを写取、我へ遣し、一覧の上、公へ呈覧す るとも、又は返すともせよと申遣すべき筈なるに、先づ我へ聞たる上に て密書を写し出すべしとは心得がたきなれば、我は取敢ず、奸賊の書、 内々にて水戸殿一覧いたし候筈無*之由を答へたり、其由は委細に執政 清虚子へ談じたる上にて取計ひ、明十五日、公へも言上せり、然るに奸 賊戮に就きたる事、公にも被*聞召*、今は嫌疑もあるまじきとの思召也、 さ て 又手斎藤弥九郎、去月中より江川の頼にて浪華へ赴き、近着すべし、弥                  わかりさふらはん 九郎に逢たらば、江川の心中も明白に 分 候 半 と存るゆゑ、一と先づ 弥九郎へ対面の上、江川へは一書を贈るべきよし、言上せり。』とあつ て、折角江川から親切に申越したのを、東湖は手続が悪いとて、江川の 処置を誠意の欠けた如くに考へ、其申越を拒んだが、烈公には其密書が        あふせ 見たいとて、此仰の有つたものと知れる、更に此日記の十一日の條に、 『平八郎の密書、早く御覧ぜられ度思召ける條、韮山江川へ申遣すべき よし仰を蒙りぬ』とあれば、烈公の熱望の程も知れる、江川も親切に、 自ら内密に申出である以上は、此密書の写しを、其後必ず烈公の覧に供 したものと断ずる。





切言
懇切にもの
をいうこと








脇安菫



横山健堂
「大塩平八郎」
その10

『塩逆述』
巻之七之上
その15
















藤田東湖
「丁酉日録」
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藤田東湖
「丁酉日録」
その19 


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